さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

年末大放出

 

 プラユキ長老がそうおっしゃるので、年末大放出(言い訳)。

 

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 これを見るまで、私にはこういう発想はなかった。これで、私がなぜ社会不適合なのかが分かった気がする。

 

 それにしても、歌詞でここまで盛り上げる曲も覚えがない。クライマックスは「先生もやってやろ!」。しかもそれを機械(?)に歌わせているのに寒気を覚える。名曲。

 

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 鋼の。

 

 歌詞のクライマックスが、なんとサビの直前にある。

 「何から逃れたいんだ...現実ってやつ?」

 こんな歌、聞いたことがない。しかも、最後に「こんな痛みも歓迎じゃん」と来る。TVサイズで奇跡が起こる。

 

 もしかしたら、彼女としてはサビの歌詞の方に重点があったのかも知れない。しかし初めて聴いた時、鳥肌が立った。「こんなに(心が)痛い歌を書ける人がいるのか!」と。

 

 

 真理の扉は、開こうとする直前に大変危険な瞬間がある。努々、一人で開こうとしてはならぬ。

 

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 痛い歌もうひとつ。

 

 自分が未成年だと思って聴いていると「そうだそうだ」と思うが、もう成年も二回回った年齢を過ごしても何もしてあげられない自分を見ると、「何もしてあげられないんだよ」とも言いたくなる。

 

 あのシリーズにもある。「人は人を助けられない。ただ自分で勝手に助かるだけ」。

 

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 もう痛い歌ではない。

 

 なぜこの歌がYAWARA!のEDだったのか、結局最後まで分からなかった。

 

 信と念の歌だ、とか言ったらまた怒られそうだ(笑)。

 

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 実は、私が一番好きな分野は宗教音楽だ。

 

 やはりその信じる心から発せられる熱、真剣さがたまらない。

 

 このEvangelistをいつかやりたい、と思っていたことがある(←家で勝手に歌え)。かっこいいでしょ?これ。

 

 この人(指揮ではないですよ)、外見もかっこいいのだが、実物は下品らしい。恩師(彼の友人)が言っていた(笑)。しかし酔うといきなり乾杯の歌とか歌い出すらしい。そりゃ上手いそうですよ。

 

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 こちらは、旧約聖書

 

 さっきの曲を見つけた作曲者が「私もこんな曲を書きたい!」と言って書いた曲。

 

 一昔前はCDだったから、「無人島に持って行くなら?」なんて質問があった。「まずは再生機だろう」というツッコミは無しに願いたい。

 

 で、一枚となると、先ほどの曲かこれか迷う。というくらい好きな曲。

 

 しかし、先ほどの曲、生で聴いたら(演奏者は違う)寝てしまった(笑)。いくらなんでも長すぎだろう…

 

 さて、この曲は合唱(テノール)で参加したことがある。なぜか終演後観客の年配ご夫婦に大変感謝された。

 

 

 ここで自分語りをお許し願いたい。

 

 私は大変なテーラワーダマニアだと思われているかも知れない。が、それ以前はクラシック音楽オタクだった。そしてその前は、超ド級のアニメヲタ、というか声優、というよりも、声オタ(?)だった。

 

 高校から短大の頃が一番激しかっただろうか。あの頃は、テレビに出てくる声であれば8割がた、ブレスだけですぐに誰かわかった。声優に限らず、ナレーション、アナウンサー、CMまですべてわかった。勿論今は全く無理だ。当時の人の名前すら忘れてしまった…。

 

 その後ドイツに留学し、当時はそこまで通信事情も良くなかったから、そこでアニメ等声ヲタは必然できなくなった。

 

 しかしドイツでも日本のアニメはちょくちょくやっていた。未だに、私の中でドイツ語がデフォルトのアニメがいくつかある。日本語で聞くと違和感がある(笑)。

 

 これがまた、あまりよくわからない言語のアニメというのは、自分で良いように補完してしまうのですな。私が日本で見たことがあるはずの回でも、独語で見るとなぜか泣いてしまう。根が浪花節なのかもしれない。

 

 しかしこのドイツ、またはフランスもそうだが、吹き替えがデフォルトのこの国々、日本のアニメに対するリスペクトがハンパない。初めてセーラームーンを見た時など、この声ヲタの私が一瞬「本人が独語をしゃべっているのか!」と勘違いしたほど、声を似せている。すべてを知っているわけではないが、英語版はそこまでではない。

 

 私が、テーラワーダまがいを見せつけられて腹を立てる理由が、少しわかっていただけるだろうか。やつらには、このリスペクトが足りない。決定的に足りない。

 

 さてそこで深夜に珍しく、エヴァンゲリオンを字幕でやっていた。「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ…」という名台詞は、"Ich darf nicht wegrennen. Ich darf nicht wegrennen...イッヒ・ダルフ・ニヒト・ヴェックレンネン、イッヒ・ダルフ・ニヒト・ヴェックレンネン"となる。いくら何でも言いにくすぎだろ!と大爆笑してしまった。独語で言うと、あの気弱さがまったくなくなってしまう。

 

 当時にはもうコミック版もドイツにあった。しかし、雰囲気はもう全く違う。感覚はアメコミと同じで、擬音のオンパレード。今はどうなったか知らない。

 

 で、ドイツにはピアノで行っていたわけだが、私が何をしていたのかというと、練習ではない(笑)。本場なんだから、演奏会に行きまくっていた。

 

 ウェープッラ長老の南方仏教基本聖典に、こうある。

 

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芝居を見に行くのに次の六つの過失がある。どこに舞踏があるのか、どこに歌があるのか、どこに音楽があるのか、(略)どこに太鼓の音楽があるのかと(尋ね行き、衣服、香料、花飾りなどを整えては仕事を休む)。

 

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 マニアは、衣服は整えない(笑)。日本ではあまり見ないだろうが、一番安い席にいつもいるヤバそうな人たちがいる。スコアを持っていたりする。彼らには気を付けた方が良い。「ホンモノ」のマニアだ。

 

 しかし、私のマニア度は度を越えていた。彼らとも話が合わない。これには本当にがっかりした。ドイツに行く前には「彼らはオペラが終わった後飲み屋でそのオペラよりも長くその公演について語り合う」と聞いていたから真に受けて期待していたのだが、それがまずかったようだ(笑)。

 

 そういえば当時の知人で、楽譜は読めないがワーグナーが大好きで、彼の楽劇の歌詞は暗記している人がいた(ご存じだろうか、彼の楽劇はどれもとんでもなく長い!)。こちらがメロディーを言うと「ここね」といってすぐに歌詞が出てくる。暗記とは、そういうことだ。

 

 まあそのように演奏会(ひどいときは一日三度)に行っていると、だんだん音が出て最初の数秒でその演奏会の出来がわかるようになる。たまには、開演前にもわかるようになる。今は違法かも知れないが、開演前だったら他の客にチケットを譲って(つまり売る)出てくることもあるし、開演してしまったら、速攻で出てくる。お金がもったいない、などという感情はわいてこない。つまらんものを聞かせられ続ける方がよっぽど苦痛だ。

 

 というわけで、先の六方礼経にあるように、音楽マニアはやめた方が良い(笑)。

 

 

 私は当初、「ドイツ語がしゃべれないと死ぬ!」と思っていた。行って暫くの頃はほんとうに日本語を忘れるくらい(ほんとうに出てこないことがあった)で勉強していたはずなのだが、ある日、ふと「あ、死なねーな、これ」と思った。思った瞬間に、それまでの実力が消し飛んだ(笑)。今では、聞き取りが(私の)英語(能力)よりはまし、程度しかない。読むのは英語の方がましくらいだ。話す書くについては訊かないでほしい。

 

 しかし当時から、これまでの話から当然だと分かっていただけると思うが、ヒアリングは突出してできていた。今でも、どの言語でもヒアリングには困らない自信がある。問題は、勉強しないから意味が全く分からないことだ…。言語というのは、勉強しないと発音も良くならない。

 

 こういう所、テーラワーダのお坊様は非常に持って行き方が上手い。スマナサーラ長老しか知らない頃、偉そうに「私がなんとかしなきゃ!」と思っていた。しかし、コーサッラ長老にお会いした瞬間、「あ、もう一人こんな方がいらっしゃったんだ。もう私は何もしなくていいんだ!」と思った時だったと思う、今まで生きてきて一番安心したような気がする。正直、「日本は救われた!」くらいに思った。今思えば、あれはコーサッラ長老の失敗だったかも知れない(笑)。もしかしたら、緩める時期だったのかも知れないが。

 テーラワーダのお坊様は、自分の凄さを隠す術も身に着けている。実は自分が凄くなるより、隠す術の方がよっぽど難しい。色々なことを考えなければならないからだ。中途半端な気持ちでは、聖者は見つけられない。

 

 

 ここでやっと、年配ご夫婦の話にもどってくる。

 

 今はやっていないが、私は昔よく教会で聖歌隊に参加したり、礼拝で楽器を弾いたり吹いたりしていた。キリスト教にリスペクトはあるが、信仰心はまったくない。

 

 ドイツという国は日本と逆で、女性も男性も、非常に声が低い。まあアルトとバスの充実ぶりといったら、無い。それに対して、ソプラノはそこまでではないが、もともとテノールはほんとうに少ない。

 そこの教会のカントルは私と同い年で、そりゃあ楽器もなにもかも上手かったが、非常に厳しくて有名だった。おじいちゃんおばあちゃん達が参加する合唱に対して"Ich hebe schon tausend mal gesagt!(何千回言えばわかるんだ!)"と平気で叱り飛ばしていた。だからなのか、テノールがほんとうに数人しかいない。しかもあの(長い)曲は、最後の最後の方に最高音が出てくる。正直おじいちゃんにはどうしようもない。さすがに無神経な私でも、これには参った。あの長い曲、しかもテノールで使えるのは正直私しかいない。ソプラノ10人、アルト15人、バス20人に対し、テナー私一人。しかもドイツのアルト、バスはその重厚さが半端ない。

 他はいい。最後の最後の最高音が出るかどうか不安でならなかった。しかも、本番は結局終始立ちっぱなしだった。これも予想していなかった。頭の中は、最後の最後の最高音のことだけだった。

 

 結局、ぎりぎり出た。本当にぎりぎりだったと思う。もうほんのちょっとの瞬間長かったら、出なくなっていた。

 

 ほっとした。他にも数人いたが、東洋人ということで目立ったのかも知れない。その教会での常連だったのだろう、敬虔なキリスト教徒であることはすぐにわかった。恐らくいつもとテノールが違ったのだろう。

 

 と、気が付いたのはつい最近のことだ(笑)。

 

 

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 これはLiveバージョンであるが。

 

 初めてこの曲を聴いた時、サビにびっくりした。「まだ上げるの!?」と。

 

 ただ一曲歌うだけでも「え!?」と思うのに、これをライブの中で歌わなければならない。

 

 

 好きなものを汚された気持ちが、わかるだろうか。

 

 そして、私程度の人間でも、見た瞬間にわかることもある。修行を重ねた方であれば、猶更だ。自分が見えていないからといって、他人から見えていないわけではない。

 

 スダンマ長老から聞いたことがある。ある有名なお坊様がイギリスからスリランカに電話してきた。「その部屋に虫がいるでしょう。ちょっとその虫を部屋から出してください」。