さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

四つの御守りの冥想~不浄隨念1

 さあみんな大好き、不浄隨念だ!

 

 何度も言うように、これがthe 仏教だ!と思われたら困るものだが、もうこのブログではそんなこと書かなくても良いだろう。

 

 そしてこれまた何度も言うように、テーラワーダで言う性欲というのは、お母さんが娘よりも息子の方をかわいがってしまう現象についても「性欲」という。

 

 ゲームで考えてみよう。美少女が怪物に襲われそうで、それを美少年が助ける。

 

 これを、汚いおっさんが怪物に襲われそうで、それを汚いおっさんが助ける、となったら、「う~ん、売り上げは伸びないだろうな」とすぐに想像がつくだろう。

 

 そういうことだ。騎士道では決してかなわない愛を王女に捧げると純愛だとか(すまん、名前は違うかも知れない)色々あるが、テーラワーダからすれば、ただの性欲だ。

 

 そのように世間には普通にあるものだから、在家に対しては「不倫はするなよ」としか言っていない。しかし宗教界隈では、異常に敵視されるものだ。そのくせ、性欲の定義すらはっきりしていない。

 

 というわけで、テーラワーダの実践者としては、「おお、それも性欲なのか。おお、これも性欲なのか」と気付いていけばそれで良い。小さいことからコツコツと。

 

 何年か前か忘れてしまったが、性欲があまりに無くならないというので陰部を自ら切り落としてしまった出家がタイでいた。まあ出家に対して文句を言うのもアレだし、出家は在家と違い、brahmacariyaだ。在家からは想像もできない環境にあるのだろうからなんとも、なのだが、性欲が出たからと言って「くそー!」と思っていると、そうなってしまう。つまり、性欲に対しての怒りを育てているだけだ。

 

 修行好きの人は結構陥りやすい罠なので、頭の片隅にでも入れておこう。

 

 そして、この不浄隨念こそ、まあこの後の死隨念もそうと言えばそうだが、テーラワーダに縁のない人に話すのには細心の注意を要する。

 

 お坊様が言っていた。「頭がおかしくなるのは、怒りでではない。欲で、だ」と。我々はあまりに欲にまみれているので、それが欲だ、とは自分でなかなか気付くことができない。異常な欲というのは盗みに結び付きやすいが、結構テーラワーダの実践者に対しても「それは盗みになりますよ」と言いたくなることが多い。

 

 つまり、欲のある人に対して「それは欲ですよ」というのも実は危ない、と言いたいのだ。または逆に、「それは欲だ!」と怒りを招く。いつものようにネットで見かける、やたらと道徳を盾に人を攻撃する人がそんなことを言い出したら、せっかくここまで認知度が上がったテーラワーダのイメージが悪くなる。というか、もう既にイメージが悪いのではないだろうか。

 

 仏教が崩壊するのは、外部からではない。内部からだ。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

不浄隨念

 

avññāṇāsubhanibhaṃ
アウィンニャーナースバニバン
識のない身体(死体)は不浄です、
saviññāṇāsubhaṃ imaṃ,
サウィンニャーナースバン イマン
識があってもこの身体は不浄です、
kāyaṃ asubhato passaṃ
カーヤン アスバトー パッサン
念(サティ)を育てる人は
asubhaṃ bhāvaye sati.
アスバン バーワイェー サティ
この身体の不浄を観察し実践して下さい。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「識のない身体(死体)は不浄です」。ここはあんまり触れたくないなあ。なにしろ私は十二縁起についてわかっていない。十二縁起については、必ずテーラワーダのお坊様から習ってください、としか言えない。

 

 識viññāṇaとは何か。確か前にも書いたように、私は「魂で良いですよ」と言ってしまうが、これを言うとスダンマ長老に怒られてしまう。テーラワーダではそういう不変の魂、我は無いよ、と言っているのだから、それが「魂のことですよ」なんて言ってしまうと、それをすべて否定してしまうことになってしまうからだ。だから十二縁起での識viññāṇaの話は激烈に難しい。というか、十二縁起がちょー難しい。ネットではどうやら私よりわかっている人たちがたくさんいるようだが、是非そういう人たちと一晩中十二縁起について語り合ってみたいものだ。さぞ私よりたくさんの真理を知っていることだろう。楽しみにしているよ。

 

 まあviññāṇaというのは、受精卵かなにか知らないが、そこに「入る」という表現をする。そしてそこから生命、有情、ということになる。身体からviññāṇaが出ると、次の蘊にまた入る、ということだ。それが、死体。

 


 「識があってもこの身体は不浄です」。まあ死体についても、日本ではキレイとされたりするのでなかなか難しいのだが、大念処経のnavasīvathikapabbaṃにもあるように、死体がどのように変化していくかを観察すると、さすがに「それでも綺麗です」と言い張れる人は、なかなかいないのではないだろうか。

 

 で、死体は不浄だが、識viññāṇaのある、つまり生きている我々も(有情も、ということで良いだろう)身体は不浄ですねえ、と観察して下さいね、ということだ。

 


 「念サティを育てる人は」。そうなんですなあ。私は、とにかく偈としての体裁を整えるために入れてあるのかなあくらいにしか思わないのだが、いや、実は深いつながりがあって書いてあることなのかも知れない。まったくわからない。

 


 「この身体の不浄を観察し実践して下さい」ね。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

vaṇṇa-sanṭhāna-gaṇdhehi
私のこの身体の
āsayokāsato tathā,
毛などの三十二の不浄物は、
paṭikkūlāni kāye me
形も臭いも存在するところも、
kuṇapāṇi dvisoḷasa.
どのように観ても汚いものです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「毛などの三十二の不浄物」。テーラワーダではやたらと出てくるフレーズだ。

 

 なぜ三十二なのか。アーユルヴェーダでもこう見ると聞いたような気がするが、正確に32なのかどうかはわからない。わからないが、少なくとも分類的にはこういう分け方をすることは確かだ。ピッタとか聞いたことがないだろうか。

 

 業処として不浄隨念、身起念、三十二身分をやろうとするならば、この三十二でなければならない。他は許されない。

 

 まあしかし、ライトに不浄隨念をするのなら、そこまで考えなくても良いだろう。

 

 参考までに、三十二身分を引用して今日は終わりにしようと思う。私には、日本語で見ても何のことかわからないものが多いが…

 


 その前に。

 

 「形も臭いも存在するところも」。スマナサーラ長老の本のどこかで、確か「(不浄隨念は)医者は除く」みたいなことが書いてなかっただろうか。間違いだったらほんとうにすまん。医者は日常的にそういうものを触れなければならないから(科によるか?)、不浄隨念なんかやっていたら仕事にならん、ということだろうか。

 

 で、「形も臭いも」とはなんとも言いすぎなような気がする。さすがに生の内臓を見ることに慣れていない我々が内臓などを見ると「うん」と思うが、普通に外に出ている顔や四肢が「形も臭いも」、とは、なんとも。

 

 まあしかし、そうなると「ではどこから、いつから不浄になるのですか?」という問題が出てくるので、テーラワーダでは始めから「不浄に決まってるでしょ?バカですか?」と問いかける。申し訳なかった。

 


 では引用して終わろう。

 

 日本語訳は、ウ・ウェープッラ長老著、南方仏教基本聖典(中山書房仏書林)から。パーリ語については、出家は暗記しておかないと話にならない。

 

 ここでは数が合っていないような気がするが、気にしてはいけない…。パーリ語の引用は、大念処経から。なんかお経によって多少違いがあったような気がする。こういう所、「統一しよう」とはならないのが、テーラワーダというものだ。頑なに、残っているものに忠実であろうとする。少しでも変えるともう歯止めが利かなくなるから、という考えからだ。

 


atthi imasmiṃ kāye
アッティ イマスミン カーイェー
この身体に、
kesā lomā nakhā dantā taco
ケーサー ローマー ナカー ダンター タチョー
髪、毛、爪、歯、皮、
maṃsaṃ nahāru aṭṭhi aṭṭhimiñjā
マンサン ナハール アッティ アッティミンジャー
肉、筋、骨、髄、腎臓、
hadayaṃ yakanaṃ kilomakaṃ
ハダヤン ヤカナン キローマカン
心臓、肝臓、肋膜、
pihakaṃ papphāsaṃ antaṃ antaguṇaṃ
ピハカン パッパーサン アンタン アンタグナン
脾臓、肺臓、胃、腸、
udariyaṃ karīsaṃ
ウダリヤン カリーサン
胃の中の食物、大便、
pittaṃ semhaṃ pubbo lohitaṃ
ピッタン センハン プッボー ローヒタン
胆汁、痰、膿汁、血、
sedo medo assu vasā kheḷo
セードー メードー アッス ワサー ケーロー
汗、脂肪、涙、血精、唾、
siṅghāṇikā lasikā muttanti.
スィンガーニカー ラスィカー ムッタンティ
鼻汁、関節滑液、頭中の脳漿、小便がある。

 

四つの御守りの冥想~慈隨念

 慈隨念。mettānussati。

 

 慈悲の冥想は、mettā bhāvanā。まあ慈しみの冥想ですな。メッター・カルナー・ムディター・ウペッカー・バーワナーとは、普通言わない。

 

 bhāvanāはまあ冥想だとか実践だとかで、anussatiは隨念。繰り返す。

 

 mettānussatiとmettā bhāvanā、なにか違いがあるのだろうか。bhāvanāに比べanussatiは狭義にはなるのだろうが、門と界が違う、とか、そこまでの厳密に気にするような違いはないような気がする。どうなんだろ。わからん。


 いつも言うように、こればっかりは宗教が関係ないので、是非とも、何人たりとも、やっていただきたい冥想だ。

 

 

 引用はいつも通り、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

慈隨念

 

attūpamāya sabbesaṃ
アットゥーパマーヤ サッベーサン
自分を例えにして、
sattānaṃ sukha-kāmataṃ,
サッターナン スカカーマタン
他の生命も幸福を好きだと理解して、
passitvā kamato mettaṃ
パッスィットゥワー カマトー メッタン
すべての生命に対して
sabbasattesu bhāvaye.
サッバサッテース バーワイェー
慈しみの心を育てて下さい。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 波羅蜜には、慈波羅蜜がある。果たして上慈波羅蜜と最上慈波羅蜜とは何なのかは私にはまったくわからないが、慈波羅蜜を完成できるような段階にあれば、自然と次のものなど見えてくるだろう。

 

 というわけで、以前は慈悲の冥想「だけ」では悟ることはできないと書いたが、慈悲の冥想はやらなければ、悟りに至ることはできない。

 

 捨波羅蜜もある。が、なぜか悲波羅蜜と喜波羅蜜は、無い。ここら辺も、アビダンマ的に解析していけば面白いのかも知れない。

 


 「自分を例えにして」。結局、他人は、自分だ。人は自分の鏡、なんて言ったりもするだろう。他人の行動の意図を自分の心から解釈していくのが普通だ。それがすべて、とは言わないが。

 

 花物語で(夢の中の)臥煙遠江が言う。

 

「正義の動機っていうのは、大抵の場合悪への嫉妬なんだ」。

 

 当時はあまり意味が分からなかったが、なんかやたらと不道徳を働いた人を攻撃している人を見て、今ならなんとなくわかるような気がする。

 


 「他の生命も幸福を好きだと理解して」。恥ずかしながら、私は長い間どの生命も幸福が好きだ、幸福になりたいと思っているのだ、ということが理解できなかった。周りを見ても、あまりに幸福になることを拒否している人ばかりに見えたからだ。人が幸福になりそうだと邪魔をする。そんなことしていたら、自分が幸福になりそうな時には必ず仕返しに遭う。そんなことしていて幸福になれるはずがない。

 

 実際、これは正しかった。だから、怖くて幸せになれないのだ。誰かに邪魔されるのではないか、と恐れて。

 

 何度も言うように、付き合う人間は選ぶべきだ。これは非常に大切なことだ。場合によっては親族ですら、関係を切らなければならないこともある。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

sukhī bhaveyyaṃ niddukkho
スキー バウェイヤン ニッドゥッコー
私はいつも幸福でありますように、
ahaṃ niccaṃ ahaṃ viya,
アハン ニッチャン アハン ウィヤ
苦しみから離れますように。
hitā ca me sukhī hontu
ヒター チャ メー スキー ホントゥ
私とともに私の親しい生命と(好きでもない嫌いでもない)中庸の生命、
majjhattā catha verino.
マッジャッター チャタ ウェーリノー
嫌いな生命も、幸福でありますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 だから、まずは「私はいつも幸福でありますように」。やはり自分が不幸のどん底にあり続けても他人の幸福を望む、ということは、絶対に不可能かどうかまではわからないが、まあできるのは嫉妬しないくらいまでではないだろうか。


 慈悲の冥想の文言で、「親しい生命が」というのがあるが、私はあれにも困った覚えがある。後から考えると勝手に自分でどの範囲か決めてしまえばいいわけだが、なにしろ最初の頃はテーラワーダについてなにもわからない。何が良くて何がいけないのかもよくわからない。「親しい生命とは何なのか、どこからどこまでの範囲を「親しい」と言ってしまっていいのか」などとずっと迷っていた。

 

 言葉的には、「関係の近い生命が」としてもいいかも知れないが、確かに一般的に皆でやろう、という時にはそれよりも「親しい生命が」の方がかっこがつくような気がする。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

imamhi gāmakkhettamhi
イマンヒ ガーマッケッタンヒ
この町のすべての生命が
sattā hontu sukhī sadā,
サッター ホントゥ スキー サダー
幸福でありますように。
tato paraṃ ca rajjesu
タトー パラン チャ ラッジェース
これ以外の場所、国、世界、宇宙の生命は、
cakkavālesu jantuno.
チャッカワーレース ジャントゥノー
いつも幸福でありますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 慈悲の冥想のやり方でもよく言われる、同心円的なやり方だ。

 

 まあとにかくいろんな文言で慈悲の念を育てれば、それで良いわけだ。気に入ったものがあればそればかりやっても良いし、どれも満遍なくやっても良い。

 

 ただ、できればどんどん範囲は広げていっていただけると、これ以上嬉しいことは無い。なので、まずは「自分」から、次に近い生命、遠い生命、など。この分類も色々ありますな。

 

 しかし、恋人や配偶者、場合によっては家族などは慈悲ではなく慈悲の失敗になりやすいのでまずは避けろ、とか言われますな。

 

 これと同じで、好きな人ばかりやっているのも、問題になる。異性の場合は性欲を膨らませているだけ、なんてことになってしまう。

 

 この区別が難しいと思う場合、あまりに近い人や好きな人は慈悲の冥想から外すべきだ。異性というのは意外な落とし穴なので、最後まで気を付けた方が良い。

 

 以前にも書いた通り、テーラワーダで言う性欲というのはなにも性行為をしたい、という欲のことばかりを指すのではない。異性、現代だと同性に対しても市民権を得つつあるが、意外に慈と性欲の区別というのは、難しい。

 

 まあしかしそこだけ「そういうことがあるのだ」と意識しておくだけで、だいぶ違うと思う。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

samantā cakkavālesu
サマンター チャッカワーレース
梵天界に至るまで、この宇宙にある惑星すべての生命、
sattānantesu pāṇino,
サッターナンテース パーニノー
目に見えない命あるもの、
sukhino puggalā bhūtā
スキノー プッガラー ブーター
すべての人間、すべての精霊、
attabhāva-gatā siyuṃ.
アッタバーワガター スィユン
すべての生命が、幸福でありますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 更にその同心円を広げていただきたい、ということだ。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

tathā itthi pumāceva
タター イッティ プマーチェーワ
それとともにすべての女性、男性、
ariyā anariyā'pi ca,
アリヤー アナリヤーピ チャ
聖者、俗世間の人、
devā narā apāyaṭṭhā
デーワー ナラー アパーヤッター
神々、人間、地獄の生命も、幸福でありますように。
tathā dasa-disāsu cāti.
タター ダサディサース チャーティ
十方すべての生命も、幸福でありますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 今度は区別の仕方が変わるが、最後は結局「十方すべて」。東西南北にそれぞれのその間、それに上と下。パーリ語では東北東とか、北北西とかは、言わないらしい。

 

 そういえば、日本人でもその言い方にあまり馴染みが無い方に会ったのだが、もしかしたら私が馴染みがありすぎなのだろうか。気象などやっていると必ず出てくる。天気予報でもよく聞くだろう。

 

 ドイツでも、「そこの言い方は?」と訊いたら、そこには世界各国の人がいたが、どこの国の人にも笑われた。私は「え!?」と思った。

 

 どうでも良い話だが、私は小学生の時に十二支が言えた。たまたま「言える人はいますか?」と発表の機会があったから知ったのだが、そんなのは学年で私一人だった。先生としても、どうやら前提は「いないよね」ということだったらしい。なんか申し訳ないことをした。いや、でも、十二支くらい、子供の頃から言える人は私の年代でもいるでしょ?

 

 なんか、そういうことが多すぎる。世間的に言うと、どうも私は「変人」らしい。私の常識と皆の常識が違いすぎて、社会についていけない。どうしたらいいでしょう?

 

 

 ま、結局は、どんなやり方(方向、種類等)でもいいから、色んな生命に慈悲の念を繰り返し送る練習、それが慈隨念であり、慈悲の冥想だ。

 


 慈隨念終了。

 

四つの御守りの冥想~佛隨念4

 引用は、富士スガタ精舎(富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

eko sabbassa lokassa
エーコー サッバッサ ローカッサ
世尊は、
sabba-sattānusāsako,
サッバサッターヌサーサコー
すべての世界を指導する方です。
bhāgya issariyādīnaṃ
バーッギャ イッサリヤーディーナン
お釈迦さまの財産は、
guṇānaṃ paramo nidhī.
グナーナン パラモー ニディー
その無量の徳です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「世尊は、すべての世界を指導する方です」。他の宗教の人が聞いたら卒倒しそうな言葉だが、まあテーラワーダ仏教徒にとっては当たり前の言葉だ。別に、他の宗教の人に押し付ける必要はなにもない。

 

 この前の前の偈に、「世間解(せけんげ)」とある。すべての世界、三世界を知り尽くす方。何故その方に訊かないで、他の人に訊く必要があろうか。いや、ない(反語)。

 

 こういうことをわかっている、少なくとも出家達がたくさん歴史上にも当たり前にいたわけだが、そういう出家達が「これは聖典である」と認めているにもかかわらず、よくもまあ「この聖典は後の世代に改変されている、または付け加えられている。だから間違いだ。私の言うことの方が正しい」などと言えるものだ。そういう人は、テーラワーダ仏教徒ではない。五戒を守る、信saddhāのあるテーラワーダ仏教徒が、そういうテーラワーダ仏教徒ではない人たちが言う、テーラワーダについての事項は、まったく聞く必要がない。別に、他の分野についての発言等、人格を否定したいとか、そういうわけではない。そちらには能力があったり、私からしたって尊敬できる部分は大いにあったりするが、ことテーラワーダの教義に関しては、正直「死ね」と思う。

 

 だいたいそういう人たちは、アビダンマを勉強していない。なぜなのだろう、日本語訳にも関係したはずの人がアビダンマ的にちんぷんかんぷんなことを言っていたりするのは。

 

 これは、「自分で書いていることがどういうことかわかっていません」と白状しているようなものだ。専門分野の怖さを知らない人は、まあそりゃ勝手なこと書けるわなあ。

 

 というわけで、他の宗教の人にこういう考えを押し付けたいわけではない。大乗仏教の人がテーラワーダを研究するのは大いに嬉しいことだし、そういう人が著書を書くのも大賛成だ。ネットでも大いに発言して良いし、むしろ発言すべきだと思う。

 

 だが、テーラワーダ仏教徒が、そういう人たちの言うことを聞くのは問題だ、と言いたいだけだ。それがテーラワーダの教義だ、ということになると、大変困る。

 

 まあ何度も言うように、今まではテーラワーダについて、まともな日本語の資料は皆無に等しかった。わかってから読めば、「まあ、間違いではないわなあ」とか、「ああ、ここはここをこう思ったからこう書いたんだな」とか、「あ、ここはわかってないかなあ」とか見えるが、一番最初に読む資料がそれでは、後でその思い込みを修正するのが大変だ。

 


 「お釈迦さまの財産は、その無量の徳です」。これは今までも書いてきた、梵天が寿命が尽きるまでにも言い切ることができないほどの無量の徳、それこそがお釈迦様の財産だ、ということだ。

 

 その財産の一部しか我々には思いつくことすらできないわけだが、それでもその一部を思い起こすだけでも、喜びが生まれてくる、というわけだ。財産について思い起こしていたら、誰だって楽しいだろう。「あれもできる、これもできる」と。

 

 まあ信saddāがない人には、なかなかそこまでは難しいと思う。というわけで、このブログがそこに至る予備知識となれば、大変嬉しい。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

paññāssa sabba-dhammesu
パンニヤッサ サッバダンメース
世尊の特長は、
karuṇā sabba-jantusu,
カルナー サッバジャントゥス
あわれみをもって、
attatthānaṃ paratthānaṃ
アッタッターナン パラッターナン
自分の為と他人の為に
sādhikā guṇa-jeṭṭhikā.
サーディカー グナジェッティカー
法(ほう)を説くことです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「自分の為と他人の為に」。なんか前にも書いた気がするが、お釈迦様ですら、「自分の為と他人の為に」と明記されている。「他人の為だけに」なんて、どこにも書いてない。

 

 あまりどこかに書いてあるような気がしないのでここで書いてしまうが、「他人の為だけ」というのは、原理的にまったく持続することができない。正直に言おう。あれは「嘘」だ。musāvādaか、と言われると、恐らく本人もそう思い込んでいるのだから、そういうわけではないと思うが。

 

 「他人の為だけに」を本気でやろうとしたら、一回のみで終わるはずだ。しかも結果が出るかどうかわからない。

 

 十波羅蜜の一つ、布施波羅蜜のうち、最上波羅蜜は、自分の命をお布施する、つまり差し出すことだ。名前などが違うかも知れないが、ここはテーラワーダでも大乗仏教でも変わらないと思う。

 

 しかし、これは「最上」波羅蜜だ。その下の「上」布施波羅蜜は、確か自分の臓器等をお布施すること。これも多分大乗仏教でも変わらない。

 

 なんか、大乗仏教はそっちばっか見てるのだ。まあしょうがない、「阿羅漢などになったところで意味はない、場合によっては地獄に落ちる。そうではなくて、我々は正自覚者「のみ」を目指すのだ」とたいそう偉そうなことを言っているのだから。

 

 別に、そういう人がいたって良い。しかし、一般庶民にまでそれを強要しないでほしい。一般庶民には、普通の布施波羅蜜だけで十分だ。金や物、能力等のお布施を、できる時にできるようにやればそれで良い。

 

 日本はその影響下にある関係上、滅私が良いこととされる。しかし、お釈迦様はそんなことは言っていない。「わがままは言うな」とは言うかも知れない。でも、わがままと私を滅することは、まったく違う。ここを「自我を滅する」と誤解しているところもあるのかも知れない。

 

 こういうことをしているとどうなるのか。そういう人たちは、自分を「我慢」している。で、我慢をしていると、確実にそれを人に強要しだす。「私はこんなに我慢しているのに、あんたたちはなんですか!」と。そんな我慢をしていることなど、その人の勝手だ。それで関係のないこちらが文句を言われたら、たまったものではない。

 

 と、前の宗教でいろんな目に遭ってきた私は、思う。

 

 自分の感情、直感を軽視し過ぎると、不運になるそうだ。

daigoblog.jp

 なるほど、新興宗教などで、いわゆる「ああいう」雰囲気になってしまうのは、こういう理由があってのことなのかも知れない。

 


 「法を説くことです」。つまり、法を説いている時だって、「自分の為と他人の為」なのだ。

 

 正直、この人にはこういうことを言ってあげた方が良い、と私にだって思うことはある。しかし、そんなことを言ってしまったらこちらの身が危ない、とも思うのだ。言ったところでそれを聞いてもらえるような腕があるわけでもないし、それを聞いてもらえなかったところでこちらに攻撃し始めて、それをかわすことの出来る腕があるわけでもない。当然、いつもそうだ、というわけではない。

 

 大事なのは、答えがわかること、解決策がわかること、ではない。そんなのは、第一歩に過ぎない。難しいのは、それをどう現実化するのか、ということだ。

 

 腕のある人は、「他人の為に」黙っていることも当然ある。しかし、「黙っているということはやましいことがあるからだ」と攻撃されてしまう。それに忍耐できる人は、黙り続ける。

 

 経典解説で、スマナサーラ長老が、「ここで私が「間違っています」と言ってしまうと問題になるから」と言ってしまったことがある。つまり、「これは間違いだ」と長老だって言いたいわけだ。しかしそこでそう言ってしまうと、相手にとって社会的に問題が起こる。

 

 誰かを攻撃していれば自分の立場は安全だ、と思っている人は、いつか舌禍に遭う(←お前が言うな)。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

dayāya pārami citvā
ダヤーヤ パーラミ チットゥワー
世尊は三十波羅蜜を実践して、
paññāyattānamuddharī,
パンニャーヤッターナムッダリー
輪廻転生を越え、
uddharī sabba-dhamme ca
ウッダリー サツバダンメーチャ
すべての法を理解して、
dayāyaññe ca uddharī.
ダヤーヤンニェー チャ ウッダリー
他の生命にも輪廻転生という海を渡る道を教えました。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「世尊は三十波羅蜜を実践して」。ここは自信が無いのだが、正自覚者が三十波羅蜜、独覚仏陀が二十波羅蜜、阿羅漢が十波羅蜜だったような気がする。いずれにしても阿羅漢になるには三十が必要だったかもしれない。すまん、まったく自信が無い。

 

 まあ少なくとも、というわけで、最上布施波羅蜜、つまり一回は必ず命をお布施しなければならない関係上、一回の人生で「正自覚者になる」と誓願して正自覚者になれる、ということはあり得ないということがご理解いただけただろうか。そもそも正自覚者になる誓願は正自覚者の前でしないと意味がない。自分で勝手にする分にはかまわないが、だからといって正自覚者になれるわけではない。必ず正自覚者に授記されなければ、正自覚者にはなれない。

 

 

 「すべての法を理解して、他の生命にも輪廻転生という海を渡る道を教えました」。その恩恵を受け、私もこんなブログを続けることができている。

 

 まあ逆に言えば、変なことを言う人がいるからこそ、「それは違う!」と頭に来るので、ブログを続けていられる、ということでもある。前にも書いたように、私はあまり「こういうことがわかったよー!」と発表する意欲が沸くタイプではない。なにをするにも「めんどくさい」。大概の行動の原動力は、怒りだ。

 

 だからと言って、変なことを言う人に感謝する気には、まだ到底なれない…

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

dissamāno'pi tāvassa
ディッサマーノーピ ターワッサ
目に見える世尊の身体は、
rūpakāyo acintiyo,
ルーパカーヨー アチンティヨー
言い表せないほど綺麗です。
asādhāraṇa ñānaḍḍhe
アサーダーラナ ニャーナッデー
その世尊の智慧である法身については
dhamma-kāye kathā ca kā'ti.
ダンマカーイェー カター チャ カーティ
何を言い表せることがあるでしょうか。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「目に見える世尊の身体は、言い表せないほど綺麗です」。私には、よくわからない。よく、見目麗しかったとか、または経典にあるように、三十二の相があったとか、まあ色々ある。

 

 醜くはなかったのだろうなあ、くらいは確実に言えるのだが、それ以上はよくわからない。すまん。光背も、いつでも誰にでも見えたものなのだろうか。わからない…

 


 「その世尊の智慧である法身については」。法身。タンマカーイタイ語が分からないので発音があっているかどうかわからないが、あれだ。

 

 どうしてもお釈迦様ご自身を尊敬できない人は、法身でも構わないわけだ。お釈迦様を同じ人間だ、と思うと嫉妬が出てきてしまう人もいると思う。そういう人は、法の面白さを味わえば、それで良いわけだ。良いわけだが、そのままでは恐らく信saddhāをそこまで育てるのは難しいだろう。

 

 だから、今の日本では、信は育っていない人が多い。お釈迦様に対する尊敬の気持ちが決定的に足りない人をよく見かける。

 

 もう一度、吉祥経から引用して終わりにしたい。

 

 「尊敬すべき人を尊敬すること」。

 

 では尊敬すべき人をどう見分けるか。これは何度も書いている通り、自分が徳の高い人になるしかない。マニュアルは、ない。なにもテーラワーダ関連でなくても、尊敬できる人は山ほどいる。五戒を守っていなくたって、自分が学ぶべきものを持っている人は沢山いる。戒律は自分で守るべきものであって、人を選別するリトマス試験紙ではない。

 

na paresaṃ vilomāni

ナ パレーサン ウィローマーニ

na paresaṃ katākataṃ,

ナ パレーサン カターカタン

attanova avekkheyya

アッタノーワ アウェッケイヤ

katāni akatāni ca.

カターニ アカターニ チャ

 

 どうもネットでのテーラワーダ界隈を見ていると、視野が狭すぎるかな、と感じることがままある。そこまで悟りにこだわらなくて、いいんじゃない?

 

 今ちょうど読んでいる本で、cisさん著、「一人の力で日経平均を動かせる男の投資哲学」角川書店の32頁にこうある。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

 そのなかでもとくに大きく負けるのは、自己能力と自己認識が乖離(かいり)している人。つまり、自分を突き放してシビアに見られない人。

 わかりやすくいえば、自分の状態を直視できない人が大きく負ける。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 テーラワーダでも、法に従って生きる人の進歩はゆっくりだ、という。ゆっくり行きましょうや。

 

 

 本題とは何の関係もないが。

 

 私は今日、どうにもある新しいことに取り掛かる気力を無くしていた。だから「新しいことができない」と検索してみて、一番上に出てきた記事。

ameblo.jp

 やる気が出てきた。 

 

 

 佛隨念終了。

 

四つの御守りの冥想~佛隨念3

 引用はいつものように、富士スガタ精舎(富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

sammāgato subhaṃ ṭhānaṃ
サンマーガトー スバン ターナン
世尊は涅槃に達しました。
amogha-vacano ca so,
アモーガワチャノー チャ ソー
意味のない、間違えた言葉は話さず、
tividhassāpi lokassa
ティウィダッサーピ ローカッサ
三世界を
ñātā niravasesato.
ニャーター ニラワセーサトー
理解しています(世間解(せけんげ))。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「世尊は涅槃に達しました」。テーラワーダをやっていると、「ん?当たり前じゃね?」と思うが、まだ馴染みが薄かったりすると、そもそもお釈迦様は存在したのか、という話になってしまう。

 

 後の世代の、では例えば阿羅漢方が作ってきたもの、としてもまあ文句は言わないが、私としては、とても大阿羅漢方が束になっても絶対に出てこない言葉が経典にはある、と感じている。

 

 しかし、前にも書いた通り、後に作られた経典はあるかも知れない。しかしそれであっても、やはりこの佛隨念があったればこそ出てくるものであって、それ無しには絶対に出てこないクオリティのものだろう、という確信はある。

 

 これこそ信が無いとそうは思えないものなのだから、やっぱり佛隨念はやりましょうね、という話になって終わる。

 

 そもそもお釈迦様が涅槃に達していなかったとしたら、テーラワーダそのものが成り立たなくなる。しかしそれにしては、首尾一貫しすぎている。というわけで、お釈迦様もいたし、涅槃に達したことも当然だろう、との確信に至る。

 

 他の宗教を例えに出して申し訳ないが、他の宗教は、深く知れば知るほど、疑問が増えるのが普通だ。しかしテーラワーダは、深く知れば知るほど確信が増えていくばかりだ。文句を言っている人は「ああ、この壁に跳ね返されたな」とわかったりするが、説明したところでわかってはもらえないだろうし、私だって全部わかるわけでもない。問題なのは、結局こういう所は「信saddhā」の問題になってくるからだ。

 

 私の前の宗教でよく言われた。悩みを相談しようが、最後は結局「そうですか。信心が足りませんね」。

 

 結論が一緒になってしまうのは、なんとも、なんとも、だが、仕方がない。テーラワーダにだって、そういう部分は、残念ながら、ある。

 


 「意味のない、間違えた言葉は話さず」。まあ経典を読んでも、はっきり言ってわからないとこだらけだ。しかし、誰かには突き刺さっているはずだ。いつかは突き刺さるのかも知れない。

 

 だから経典については、微に入り細に入り分解して解説されたりもする。それだけの要求に耐え得るスペックを持っている、ということだ。

 

 私も初めの頃は「それはどうだろう?」と思ったものだが、やっていくと、なんとなくわかってくる。それでも成立してしまうのだ。だから以前にも書いた通り、三蔵と注釈書では決定的にレベルが違う。そこが、訳す恐怖でもある。そこまでの責任が持てるのか。


 経典では、後にお釈迦様が判断を変えた発言、というものもある。ではあれは間違えた発言だったのだろうか。

 

 いや違う。方便ととってもいいし、そう言わないと事態が進行しなかったのだ。

 

 こういう所から、お坊様もテクニックを身に付けていき、在家にも実践なさる。ここはちょっと、発言がすべてとは言わないがネットに残るような現代では、時代に合わせてテクニックを変える必要のある部分なのかもしれない。

 

 まだ、デジタルネイティブの出家が大活躍、という段階では無いだろう。しかしネットで活動なさるお坊様方も出てきた。あれは素晴らしい!

 

 本来テーラワーダの国では、出家がいて寺があって、そこに村があるのだからその村のことについては出家が詳しく、だから問題が起こっても、決してすべて解決できるわけではないだろうが、出家が出て対処することができる。

 

 しかし今の日本では、そういうことはできない。ではどうするのか。日本各地にいる人たちに、ネットを通して何らかの働きかけをすることかできる。これこそが、慈悲の活動だ。

 

 どうもテーラワーダの出家、というと「修行だけしてろや」と言う人がいるが、いや勿論それは大事だ、テーラワーダの柱なのだから。しかし、柱はもう一本ある。慈悲、だ。解脱に向けての修行が出世間への面、慈悲の実践が俗世間への面、その二つの修行があるからこそのテーラワーダだ。

 

 以前にも書いた通り、今まではそこを強調しにくかった。どうしても、新興宗教の活動みたいになってしまうからだ。お坊様がきめ細かく、それに対応することも現実的にできなかった。

 

 しかし、今は曙だ。現代ならではの、アドバンテージもあると思う。

 


 実は、私にはもう一つ、夢がある。テーラワーダの村ができたら、と。

 

 いや、あまりに宗教都市になると危険視されるから外部排除だとかそういうことではなく、地元にもお金が落ちれば必ず歓迎される。逆に言えば、お金が落ちなければ危険視されるだけで終わる。

 

 スガタ冥想センターは、地元のスリランカの人も来るが、非常に遠くからも来る。まあなかなか現地で仕事を作り出すのは難しいだろう。

 

 しかしお食事のお布施は、地理的に近いところに住んでいないと、継続的には難しい。が、子供もよく来れるようになれば、なかなか地域社会が働きにくい現代において、お互い助け合って色々なことができるのではないか、と思う。

 

 これはなにもテーラワーダという宗教に限る必要もないのだが、まず最初は、テーラワーダの教えに則ってやりやすい人たちが集まって、とやる方が格段に進むような気がするのだ。そして、それが軌道に乗ってきてノウハウもできてきたら、その時こそテーラワーダに限らず、運営できるモデルになり得るのではないか、と思うのだ。

 

 まあしかし、じゃあテーラワーダの国でそういう村がうまくいっているのか、というと、全肯定は難しいだろう。この夢が一つだけそれと違うとしたら、それは「新しい」というただ一点のみだ。そこに賭けるしか、ないのかも知れない。まあ、全然わからんけど。

 


 「三世界を理解しています(世間解)」。これが昨日言った、世間法も理解していますよ、ということだ。三世界というのは、欲界と色界、それになんと無色界も、だ。「完全に理解している」。完全に理解したうえで、おっしゃっているのだ。我々がわからないのも、当たり前と言えば当たり前だ。適当に解釈してはならない。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

anekehi guṇoghehi
アネーケーヒ グノーゲーヒ
世尊は色々な徳を持つ、
sabbasattuttamo ahu,
サツバサットゥッタモー アフ
優秀な方です。
anekehi upāyehi
アネーケーヒ ウパーイェーヒ
暴れている生命を、
nara-damme damesi ca.
ナラダンメー ダメースィ チャ
聖なる道へと導くことの出来る方です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「世尊は色々な徳を持つ、優秀な方です」。これまでも説明してきたように、数えきれない徳を持つ方だ。こんなものではない。勉強すれば勉強するほど、驚くべき徳が次から次へと見えてくる。目指すべき師匠がいる、しかも有情であれば、誰がどこまで精進しようが、絶対に適わない師匠がいる。これがどれだけ幸せなことか。

 


 「暴れている生命を、聖なる道へと導くことの出来る方です」。結局、これだ。これが有情の中で最大限、というか、お釈迦様ができない、ということはイコール受ける側の業が良くない、ということになる。そればかりはどうしようもない。

 

 冥想の説明でも聞いたことがあるだろう。牛だか羊だか忘れてしまったが、首に紐をつけて杭を打ちそこに繋げると、最初は暴れまわるが、しかしそのうちだんだん(諦めて?)大人しくなる。心というのはそういうものだ、と。

 

 本当の民主主義というのは、激烈に難しい。皆勝手に暴れ出すからだ。それを恐怖で統制する方がよっぽど簡単だが、それは歴史から見ても、長続きはしないし、結果も良くならない。

 

 その次だ、皆を統一して管理しよう、というのは。軍隊などは部署によってはそうでないと機能しないし、それが一概に悪い、とは言わない。しかしテーラワーダというのは、それとは超対極にある。

 

 これを管理しよう、というのは、不可能に近い。もしかしたら、「管理」という言葉が良くない、合わないかも知れない。ではどうすればいいのか。「慈悲」しか無い。残念ながら(笑)。

 

 それぞれの専門分野ではきっちりと能力を発揮して、しかし問題が起こった時には、というか、問題が起こった時にはすでに手遅れなのだ。それなりの専門家でないともう対処はできない。なのでどうするのかというと、問題が起こる前から、慈悲で対処していく、慈悲で生活していくと、問題が起こらない。

 

 問題は、そんなことをしているとなにも問題が起こらないのだから、そもそも話題にも上らない。「なぜ問題が起こらないのか」なんて、あまり議論しないだろう。普通は、「なぜそんな問題が起こったのか」だ。ほんとうは「なぜそんな問題が起こらない状態ではなくなるのか」なのだが、まあそんなこと言っていてもしょうがない。しかも、これはインパクトがないから、なにより商売にならない。現実的に、これが一番の問題とも言える。

 

 「はやぶさ」は大変話題になったが、まあこんなことを言っては失礼千万だが、あれだけの情熱を持った人たちが話題になるためにはああなるしかなかったのか、とも思うが、ではまったく問題を起こしていない「イカロス」の名前を知っている人がどれだけいるだろうか。問題が起こるとインパクトがあるが、問題がないと、なかなか話題には上りにくい。

 

 以前にも書いたことがあるからもう書いていいと思うが、世界中で問題を起こしているのはイスラム教徒だ。中には勿論まじめな人たちも多い。みんながみんなそうだ、とは決して言うつもりはない。しかし、なぜなのだ、仏教徒と衝突を起こすと必ず「仏教徒が悪い」という話になるのは。

 

 何度も言うように、仏教徒が一切悪いことをしていない、とまで言うつもりはない。しかし、大概一方的にいつも「仏教徒が悪い」で終わる。

 

 そういったニュースだけではなく、世の中にはそういった面もある、という考えを持つと、もうどう判断して良いのやらまったくわからなくなる(笑)。恐らく、当事者だってわかってないだろう。周りが、「どちらかが悪い」として決着を付けたいだけだ。

 

 じゃあどうすれば良いのか。慈悲だ。

 

 これは、「どちらも悪くないですね」とは全く違う。その場その場に合わせた智慧、だ。だから慈経にもそう書いてある。

 

 慈経には、最後には梵天だとか邪見だとか涅槃だとか出てくるが、そこだって当時のインド社会からすれば別に「うわ、宗教だがや」とか思うレベルの話ではなかった。

 

 慈悲、慈悲喜捨、そうでなくても、慈だけでも、これだけは宗教に関係なく、是非とも多くの人が実践してもらえたらなあ、と思うもので、もし少しでも多くの時間、少しでも多くの人が実践してもらえたのなら、確実にその分だけ社会は良くなる。それだけは断言できる。

 

 しかしそれだけに、慈悲の冥想「だけ」では、実は悟りに至ることはできない。ヴィパッサナーを実践していれば、たまたま慈悲の冥想をしている時に悟りに至ることはあるかも知れないが、慈悲の冥想「だけ」をしているだけでは、悟りに至ることはできない。

 

 これは何を意味するのかと言うと、逆に言えば、慈悲の冥想「だけ」をしていれば、世間の問題は解決してしまう、ということだ。理想論だが。

 

 現実は、有情の中で慈悲が一番ずばぬけてあるお釈迦様が、では社会の問題をすべて解決できたのか、というと、そうではないことは皆さんもうご存知だろう。しかし、ご自分の問題はすべて解決された。その上で、皆に憐れみを持って教えを伝えて下さった。これは慈悲意外のなにものでもない。

 

 つまり最初の時点で、仏教は慈悲がないと成り立っていないのだ。自分で解決、自分を解決するのが悟りで、外、社会に働きかけるのが慈悲。

 

 ここが理解されていないので、「小乗は自分の悟りばかり」と言われてしまうのだろう。なぜそう言われてしまうのかは、これでわかっていただけただろうか。問題を起こさないのだから、外部からは「無い」と同じになってしまう。