さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

四つの御守りの冥想~佛隨念2

 引用は、富士スガタ精舎(富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

savāsane kilese so
サワーサネー キレーセー ソー
世尊はすべての煩悩をなくし
eko sabbe nighātiya,
エーコー サッベー ニガーティヤ
心を清らかにした
ahū susudha santāno
アフー ススッダ サンターノー
すべての供養を
pūjānañca sadāraho.
プージャーナンチャ サダーラホー
受け取るべき方です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「すべての煩悩をなくし」「心を清らかにした」。どうも「煩悩をなくす」というと虚無、厭世を思い浮かべる人が多いようで、実際仏教も、テーラワーダもそういう誤解を受けることが多い。

 

 まあこれも仕方がないといえば仕方のないことだ。世の中のほとんどは貪瞋痴でできている。だからその元の衝動が無くなってしまったらどうするんだ、なにも行動できないではないか、と思ってしまう。

 

 実際テーラワーダを勉強している人でも、結局その勉強、実践で得た知識、経験を貪瞋痴で使ってしまう。「その貪瞋痴を減らしましょう」と言っているのだから、そりゃ普通嫌に決まっている。

 

 だから、「逆に行く人、流れに逆らう人」なのだ。結局は、何をしていても、不貪、不瞋、不痴でありさえすればそれで良い。善行為だ。

 

 しかしそんなことをいきなり言われても、イメージすらわかない。だから冥想という非日常的な方法を使って訓練するわけだし、しかしこれは筋トレのようなもので、大事なのは日常生活にそれをどう活かすか、ということだ。筋トレで日常生活を壊していたら、何のためのテーラワーダなのか。また、その筋トレのやり方を延々と議論してストレスを溜めて、なんの意味があるのか。

 

 中にはボディビル等の専門家も現れる。それはそれで良い。しかしそれは必ず専門家の下でやるべきだ。確か伝説のボディビルダーで、あまりにストイックすぎるがゆえに餓死した人がいたはずだ。

 


 「すべての供養を受け取るべき方です」。それは、こちらに詳しい。

fujisugatavihara.blogspot.com

 

fujisugatavihara.blogspot.com

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

sabba-kāla-gate dhamme
世尊は過去、現在、
sabbe sammā sayaṃ muni,
未来のすべての法を
sabbākāreṇa bujjhitvā
自分自身で理解して、
eko sabbaññutaṃ gato.
正自覚者になりました。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「過去、現在、未来、すべての法を」。ここでの法は、dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmiの法、お釈迦様の教え、ダンマと取るとわかりやすいし、正自覚者に限り、世間法loka dhammaの法、結局は世の中のすべて、と取っても構わない。

 

 しかし、法dhammaと出てきたからといって、どこでもloka dhmmaのことだと思うと、大問題が起きる。この区別は、きちんと勉強してからにしないと、理解が容易に教えから逸れてしまう。

 

 で、世の中のすべてを知ったから正自覚者になるのではなくて、教え、ダンマをすべて知るから正自覚者になる。

 

 ここは難しいと言えば難しいところだ。解脱に達するために必要なことはすべて知る、即ちそれは世間lokaを知り尽くすとも言える、つまり輪廻を見破る、ということだ。

 

 もしかしたらここら辺は注釈書などで細かく規定があるかも知れない。私はそこまで知らない。すまん。

 

 さて、そういうわけで正自覚者であるお釈迦様は「全知」と言えるのだが、他の宗教で言う「全知全能」とはだいぶイメージが違うと思う。

 

 お釈迦様は、「知ろうと思えばすべて知ることができる」。つまり、これは知る必要がある、と思えば瞬時に知ることができる、ということであって、前もってすべて知っている、というのとはちょっと違う。

 

 経典にもよく出てくる、「朝、助けることの出来る生命はいるかな」と神通で見るのは、そういうことだ。その前からすべての世界を気にかけて把握して、というわけではない。

 

 「全能」とテーラワーダで言うかどうかは知らないが、有情ができる最大限のパフォーマンスを発揮する、と取れば「全能」と言えるだろう。

 

 お釈迦様が最大限能力を発揮すると、その場で阿羅漢になられる方もいれば、その場で預流果になられる方もいるし、その後次第説法によって阿羅漢になられる方もいらっしゃるし、悟りには導けなかった人もいるし、そもそも教えを説くこともできなかった人もいる。それは受ける側の問題であって、受ける側の業の問題ともいえる。その人の業ばかりは、お釈迦様ですらどうすることもできなかった。

 

 そもそもお釈迦様自身も、自身の業についてはどうにもならなかった。片頭痛があったとか、聞いたことがないだろうか。他の宗教ではテーラワーダで言う業すらなんとかしてしまってくれる神こそが「全知全能」なわけだが、他の宗教では「業」という概念が無かったり、きっちりと規定されていなかったりする。ここを詳しく知りたい方は、アビダンマ(略)。

 


 「自分自身で理解して」。つまり、師匠無く。いきなり自分で発見して理解する。これがとんでもない話だということがお分かりいただけるだろうか。

 

 しかし、教義上信saddhāが強い正自覚者、という方もいらっしゃる。私にはよくわからないのだが、過去世が見えているのなら、過去正自覚者に(正自覚者は教義上必ず一度は正自覚者に会っているはずだから。というか、まあ輪廻の中で「一度だけ」ということはあり得ないが)会った時の教えを覚えて、または思い出して信、なのか、

 

blog.tinect.jp

 こちらの記事に「努力とは、信仰である」と書いてあるように、「必ずや解脱はあるはずだ」と信じて精進するから信、なのか。これまた私にはわからない。すまん。

 

 「自分自身で理解して」というのは、独覚仏陀も当てはまる。「独覚」というくらいだから、独覚仏陀、縁起仏も師匠がいない。いきなり自分で真理が見える。しかし、教えを伝える術を持たない。

 

 持たない、とか言いながら、我々よりは確実にある。確実にはあるのだが、お釈迦様、即ち正自覚者のように、誰にでも真理を説くことができる、という能力を持っているわけではない、ということだ。

 

 これは何を意味するのかと言うと、輪廻の中で修行してきた期間、量が圧倒的に違う、ということだ。正自覚者は、衆生に対して憐れみを持って、衆生に教えを説くためにも輪廻の中で修行しまくる。その次が独覚佛陀。仏教、正自覚者の教えがない期間に師匠無く悟る方たち。そして最後が、阿羅漢。正自覚者の教えを聴いて悟る方たち。テーラワーダでいう「悟り」または「覚り」とは、この三つのどれかであり、現代では阿羅漢で悟ることしかできない。

 

 これも前に書いたような気がするが、仏教が存在する間、正自覚者と独覚仏陀は現れない。お釈迦様、生まれた時は菩薩だが、その菩薩が生まれた日に、最後の独覚仏陀は亡くなっている。こういうことを世間法loka dhammaという。教義上そうなっているわけだが、そこを解剖していったところで結論はいつまでも出ないだろう。しかし、「不思議な力によって」と言ってしまえば、それで済む(笑)。

 

 私だって、初めは「それはどうだろう~?」と思っていた。アビダンマの段でも書いたはずだが、あまりにも「お釈迦様にしかわからない」という文言が多すぎる。

 

 しかし、勉強していくと分かる。それだけ、圧倒的に正自覚者だけ能力がまったく違うのだ。「不思議な力」というのも、そこまで圧倒的な力ではないにせよ、次第に感じる機会が増えてくる。そうなると、その延長線上にそういうこともあるのかなあ、と信じるようになる。

 

 そういえばcatubhāṇavāra、つまり護経の中に、isigili suttaイシギリ・スッタというものがある。過去仏が亡くなってからゴータマ菩薩が生まれるまでに「インドに」現れた、確か500人だと思ったが、独覚仏陀の名前が出てくる、その名前を読み上げるだけのお経だ。

 

 大阿羅漢80人の名前を読み上げるお経は護経の中にあるわけではないから(そもそもそういうお経があるのかは知らないが、恐らく無いだろう)、それよりも力があるというわけだが、しかしテーラワーダでは、「独覚仏陀になる、とは誓願しないで下さい」とは言う。

 

 仏陀になるくらいだからそれなりの誓願はあると思うのだが、中には王様で、パレードの最中に象の背中に乗っている時にいきなり悟ったので、そのまま森の中に入ってしまった、という独覚仏陀もいらっしゃるらしい。ちょっとお釈迦様が悟られた、苦行の後に「苦行は意味がない」と理解した後でも苦労されたイメージとは、なんか、違う。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

vipassanādivijjāhi
ウィパッサナーディウィッジャーヒ
世尊は、空のように限りのない
sīlādicaraṇehi ca,
スィーラーディチャラネーヒ チャ
ヴィパッサナーの智慧を持ち、
susamiddhehi sampanno
スサミッデーヒ サンパンノー
戒を守る
gaganābhehi nāyako.
ガガナーベーヒ ナーヤコー
明行具足者です。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「ヴィパッサナーの智慧を持ち」。ここは皆さんの方がよくわかることだろう。

 

 ヴィパッサナー冥想をしていって、ある日経典を見てみると、以前は思いつきもしなかったものが見えてきたりする。そうして、「やっぱりお釈迦様すごい」と次第に確信が増していく。

 


 「戒を守る」。まあ当然のことだ。当然のことだが、例外はある。例外中の例外だが、確か経典にも出てくることがあったはずだ。それよりも優先することがある場合、だ。

 

 以前にも書いたように、テーラワーダの国でなければ比丘戒227は守れないものが多い。そもそも十戒も難しい。というか、十戒の方が難しい。その関係で、沙弥の方は今まで日本では現れることができなかった。

 

 しかし、いずれにしても五戒を破ることはあり得ない。

 


 「明行具足者です」。これはまだスガタ冥想センターのサイトにあげられていない。近々やろうとは思っているのだが…。

 

 

 そういえばこれを書いていて思ったが、昨日のものもそうで、佛隨念となると、リンク先にもあるように、どうしても不思議な力の話をせざるを得なくなる。正直こんなこと「確信」のしようがない、我々は正自覚者ではないのだから。だから「信じ」ざるを得ないわけだが、だからかもしれない、テーラワーダの実践者ですら平気でお釈迦様を冒涜するようなことを言ってしまうのは。

 

 そういうのを見ると今までは正直頭に来ていたが、今書いていて思った、それも仕方がないことなのか、と。こういった話が信じられないのなら、お釈迦様を尊敬する気持ちが現れないのも当然と言えば当然のことなのかも知れない。

 

 もしこのブログが、信saddhā、信仰心が生まれるきっかけになれたのなら、これ以上嬉しいことは無い。

 

 そして、信仰心が生まれると、世の中のいわゆるマインドフル冥想とテーラワーダの冥想は違う、ということがわかっていただけると思う。

 

 冥想があるところ以上うまくいかなくなるのは、信saddhāが無いからだ。五力のバランスが悪いからだ。智慧、慧が育ってきたら、信を育てないと、または慧を弱めないと、バランスが悪い。しかし慧を弱めたところで、結局は五力全部を力強く育てなければならないのだから、いずれいつかは信を育てなければならない。

 

 冥想がうまくいかなくなってネットで人に絡んでいるような人を見ると、この慧が強くなり過ぎた結果かなあ、と思う。知識的にはもっともなことを言っていそうで、そのくせぐるぐる同じところを回っている。

 

 まだ抵抗のある人はいるだろう。しかし、もうそろそろ、信仰心を育てないと、前には進めない。

 

 だから前にも言ったのだ、

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

「ばか、やめろ、それはスマナサーラの罠だ!」と(笑)。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 と。

 

 皆さんは、稀代の詐欺師の恐ろしさを、まだ知らない(笑)。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 

四つの御守りの冥想~佛隨念1

 ブログのカテゴリーに、「冥想」を追加してみた。

 

 知識的な観点からの冥想の話題に興味のある方は、読んでみていただけると幸いだ。

 


 四つの御守りの冥想。

 

 テーラワーダ文化圏では、普通に御守りが売られている。ブッダや大阿羅漢から有名なお坊様まで、いろんなものがある。

 

 まあ聖糸聖水だってそういうものだといえばそういうものなのだから、まったく力が無いとは言い切れない。日本の御守りといっしょで、きちんと祈祷されているのかどうか、とかそういう話になってくる。

 

 しかし、一番力がある御守りがある。この四つの冥想だ。これだけは自分でやるものなのだから、確実に効果がある。

 

 が。

 


 以前名古屋でスマナサーラ長老がおっしゃっていた。

 

 「イエス様だって失敗したでしょ?」と。

 

 なにを言っているのかというと、結局自分は死んでしまったではないか、ということだ。この時私は、「とんでもないことを言う人だ!」と戦慄した。宗教的に、とかではない。「それじゃ意味ないでしょ?」と長老は言いたかったのだ。

 

 それからだいぶ経って、質問したことがある。「私は人の影響を受けすぎるような気がします。どうしたら良いですか?」と訊いたら、「この例えで覚えてください。大変な疫病などを治療する時、医者はどうしますか?自分は完全防備して治療するでしょ?そこで自分も病気になってしまったら人に余計な負担をかけるし、最悪でしょ?」と。

 

 やたらと逃げ道を探す私がその時ポンと頭に浮かんだのは、野口英世のことだった。しかし、それも「失敗でしょ?」と言いたかったのだ、長老は。

 

 業とかの話は今は置いておこう。

 

 飽くまで私個人的な感想だと思って聞いてほしいのだが、聖書を信じるとすると、イエス様は、最初の頃は非常に順調に活動をしていた。しかし、終わりに行くほど、「?」という発言が増えてくる。

 

 最初の頃、よく人に触れて病気を治していた。私は、あれは別に嘘だったとは思っていない。

 

 催眠術とか魔術とか調べていくと、「ロイヤル・タッチ」というのが出てくる。ヨーロッパ(イギリスだったか?)ではその昔民衆に触れるだけで病気を治す王が何人も出てくる。その為に地方から何百人も巡礼(?)に来るのだが、王が次々に触れていき病気が治ってしまったのだ。

 

 私が見た本では「瘰癧(るいれき)」という、私には何の病気だかさっぱりわからないものに限定されていた、などと書かれていたが、催眠術というか、信心というか、そういう心があると、実際にそういうことは起こる。

 

 さあ、怪しい話だろ(笑)?

 

 マイケル・ジャクソンの、ブカレストライブの映像を見たことがあるだろうか。最初に彼が出てきて、確か91秒近く、不動で立っている。ただ立っているだけだ!

 

 しかし、そこで次々と気絶する観客が現れる。あれと一緒だ。

 

 原理は、私は専門家でもないし説明してもどうせ間違っているだろうからしないが、そういうことは、決して起こらない、ということでもない。

 

 そして、イエス様がなぜそんなことができたのかというと、それは慈悲の心が本物だったからだ。しかし、キリスト教では、というかテーラワーダ以外で、慈悲喜捨についてきっちりと規定しているのは私は見たことがない。

 

 慈悲喜捨というのは、本来生命が生まれつきに持っているものでは「ない」。たまに業が良くて生まれつき持っている生命、人もいるが、基本的には強引に育てないと生まれないものだ、とテーラワーダではされる。

 

 なんとも規定しにくいところだが、慚愧から慈悲喜捨が生まれてくるところもあるし、だからテーラワーダ以外の社会で慈悲喜捨が完全に無いか、というとそういうわけでもない。宗教がある所にはある程度あるし、宗教など程遠い社会でも完全に無いのか、というとまたそれもそうとは言い切れない。しかし、大乗仏教で言う「仏性」と同じように、「生命に本来そなわっているもの」では、ない。

 

 だから、まず最初は「泣きながら」、慈悲の冥想はしなければならない。


 私はよく知らないのだが、新興宗教で、人に触れて癒す、なんてのもある。あれでは無理だろう、と思う。

 

 このブログでは、よく「腕が」なんて言い方をするが、一言で言うとこの「腕」というのは、慈悲の心、慈悲の念、さらに言うと慈悲の気分のことだ。

 

 で、上に書いたように、厳しい現場に行く人ほど、自分のことが守れないと、怪物の返り血を浴びて自分も怪物になってしまう。だからだ、テーラワーダを真剣に実践しようとすればするほど、「私が幸せでありますように」が大切になってくるのは。そこまで考えていない人ならば、正直な所、そこまで重要ではない。というわけで、「私が」と「生きとし生けるものが(他の生命が)」は同時に育てていくのが理想的ではある。

 


 さて、イエス様については、神に対する信心はほんものだったと思う。しかし、世の中は極楽浄土ではない。綺麗なことを言おうとすれば言おうとするほど、苛烈な抵抗に遭う。

 

 だから、イエス様に腕が無かったとか、修行が足りなかったとか、そういうことが言いたいわけではない。「自分を守る術をきちんと育てなかったでしょ?」と、長老は教えてくれたのだ。

 

 残念ながら、「自分のことは置いておいて」と言っていると、過酷な現場続きでは、いつか息切れしてしまう。ここがちょっと、テーラワーダが他の宗教とは違うところかなあ、と思う。

 


 また、四つの御守りの始めにある仏隨念も、そうだ。

 

 残念ながらこればっかりは、大乗仏教と混ぜてしまうと後々問題になる。

 

 超真剣に冥想実践をする、とかでなければ、別に問題にはならない。しかし、激烈に冥想したい人は、大乗仏教における仏陀の定義と、テーラワーダに於ける仏陀の定義は、きちんと分けておかないと、マズい。

 

 習い事などでもそうだと思うが、最初に、自分の学ぶスタイルは一つに絞った方が良い。大乗仏教をベースにするならそれも構わないし、しかしテーラワーダをベースにするのだと決めたのなら、大乗仏教とは教義は混ぜない方が良い。そしてある程度わかってきたら、「お、あっちにもいいとこあるじゃん」となれば、それで良い。でもそれまでは、スタイルは一つに絞った方が良い。日本には、大乗仏教の定義を「テーラワーダだ」と言っている人が多い。学者の影響かも知れない。今までの学者は大抵大乗仏教出身だ。興味が無い人にとっては些細な違いだが、テーラワーダを勉強してきた者から見ると、とんでもない違いだったりする。

 


 引用はいつもの如く、富士スガタ精舎(富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典から。

 

 以前にも書いたが、スリランカのお坊様はこの文章のまま覚えている方もいるし、そのバリエーションだったりもするし、まったく覚えていない方もいらっしゃる。そのくらいのものだが、冥想の文言としては、慈悲の冥想などと同じく、教義的になんの問題もないものだ。

 

 ということは、従って、パーリ語で書かれているからといって、これは三蔵にあるものでもない。注釈書でもない。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

四つの御守りの冥想

 

buddhānussati mettā ca
ブッダーヌッサティ メッター チャ
佛隨念、慈隨念、
asubhaṃ maraṇassati,
アスバン マラナッサティ
不浄隨念、死隨念、
iti imā caturārakkhā
イティ イマー チャトゥラーラッカー
この四つの冥想は、
bhikkhu bhāveyya sīlavā.
ビック バーウェイヤ スィーラワー
戒を守る佛弟子たちの御守りです。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 もうお気づきだろうが、スガタ冥想センター関連の「仏」の字はすべて「佛」になっている。

 

 スダンマ長老が「「仏」だと死体のことも指すでしょ?」とおっしゃっていたが、私にはよくわからない。どっちでも良いような気がするが、ここは師匠に従っている。有行の善心(略)。

 

 ここでの不浄隨念は、以前このブログに出したことがあるものだ。

 

 この四つの冥想が、「戒を守る仏弟子たちの御守りです」とはっきり言っている。

 

 私自身、いわゆる「御守り」が全く効かないものだとは思っていない。しかし、「効く効かない」はあると思っている。結局は徳の高い人、神々が力を込めれば効く、という話になる。

 

 私だって、もともとあんなものに効果があるとは思っていなかった。しかし、今はあるかわからないが、仏教協会に入ると、ラミネートされたお釈迦様のカードがあって、あれに触れた瞬間とんでもないパワーを手から感じてびっくりしたことがある経験上、そういうことを言うようになった。しかしそこに誤字があったりしてな(愚痴)。

 

 怪しい話ついでに、自分の徳が高くなると、それなりに巡り合う御守りなども選別されてくる。な~んか気になるものが出てきたりするのだ。まあこれは御守りに限った話ではなく、進むべき道や、関係する人なども自然とそうなってくるのだろう。だとしたら、より自分は善行為をしておかないと、周りには徳の低いものが集まってくるようになる。ただでさえ、徳が高いからといって、徳の高い人ばかりが集まってくるわけではないのだから。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

佛隨念

 

ananta-vitthāra-guṇaṃ
アナンタウィッターラグナン
智慧のある比丘は、
guṇato'nussaraṃ muniṃ,
グナトーヌッサラン ムニン
無量の徳を持つという
bhāveyya buddhimā bhikkhū
バーウェイヤ ブッディマー ビックー
世尊の徳を観察して、
buddhānussatimādito.
ブッダーヌッサティマーディトー
佛隨念を実践します。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「無量の徳を持つという」。なかなかここまでのイメージにはいかなかった。

 

 以前も書いたように、正自覚者の徳を梵天が言おうとしても、その寿命が尽きても言い切ることはできない、とも言うし、例えば体育館を考えよう、そこを杖を突いて左から右に歩くとすると、智慧第一と言われたサーリプッタ尊者の智慧はその杖を突いたところの面積くらいだ、とも言われる。体育館がお釈迦様だ。

 

 まあたとえ話だからどのくらいのことかはよくわからないが、地球と宇宙全体、というほど絶望的な差ではないのかも知れない。

 

 仏教というのは、仏陀が説いた教えだから仏教という。その佛陀、正自覚者、お釈迦様を尊敬しないで、その仏教が身に付くはずがない。「仏陀を念じないのならば、法を念じないのならば~」というのは、そういう意味ではない。宗教として受け入れられないのであれば、「宗教は関係ないでしょ?」と言いながら、慈悲の冥想や、マインドフルネスをとりいれたヴィパッサナー冥想などだけを実践すればいいのであって、悟りを目指すのに佛陀を尊敬しない、とかはもうあり得ない。その悟りを規定された本元を否定して、なにが良いことがあろうか。

 

 インド等の大乗仏教がどう言うかはわからないが、日本の大乗仏教では、「声聞(乗)は地獄に落ちる」なんて言い方をするところもあるのではなかったか。なにも阿羅漢を崇拝する必要は無いが、そこまで貶めておいて、そんな境地に達することができるわけがない。まあそもそも「そんなの意味なく、正自覚者しか目指してませんから」と言うのだから、まあテーラワーダ的に言うと「そうですか。何百万劫も修行してまずは正自覚者の前で誓願することを目標に頑張ってください」としか言えない。そうならないとも限らない。

 

 テーラワーダでは極めて悪者扱いされるデーワダッタ長老も、お釈迦様には「次の生まれは地獄ですが、何百劫もの後に、今世で真理と縁ができた関係上、〇〇という独覚佛陀になります」と予言されている。テーラワーダ上、正自覚者の発言は絶対だ。でないと、正自覚者が嘘をついたことになってしまう。三蔵というのは、その覚悟の上に成り立ったものなのだ。ちょっと外部の人には、そこまでの情熱は理解してもらえないかも知れない。だからお釈迦様に対する信saddhāの無い人からは、いろいろ言われる。そういう人にこんなことを説明しても、分かってもらえるはずもない。

 

 だからだ、私が「大乗仏教の学者が訳したものは、どうにも」と感じるのは。この佛隨念の対象がどうしても違う。

 

 例によってまたいい加減なことを言うが、明治以前では「お釈迦様でもわかるめぇ」と言っていた(後代に作られたものだったら申し訳ない)。しかし廃仏毀釈以降なのだろうか、それとも高度経済成長以降なのだろうか、お釈迦様の影はずいぶんと薄くなってしまった。まあもともと日本にはお釈迦様の像自体が極めて少ないが。そこら辺はまったくわからない。

 

 大乗仏教で修行するなら、絶対に大乗仏教をベースにした方が良い。そちらの長年のノウハウもあるだろう。しかし、テーラワーダをやりたいと思うのなら、教義はきちんとテーラワーダに則ったものにしておかないと、冥想が進んで深いところに行ったときに、困ることになる。テーラワーダは、そういうところで、矛盾が無い。そういう矛盾だ、と思うところに突き当たって、考えて考えて、でも答えが出ない時、ふと経典を見たりしたら「あ!」と思ったりする。だから、悟りへの道も、確実に敷かれているのだろう、という確信が、私にはある。

 

 

 なんの関係もない話だが、思いついてしまったので。

 

 これはテーラワーダというよりアーユルヴェーダの話だが、もしかしたら以前書いただろうか、「鼻毛を抜くな。はげるから」ということから始まる本があるそうだ。

 

 それと同じ(?)で、アーユルヴェーダでは生理現象を否定しない。あくび、おなら、げっぷ等々。涙も決して我慢するな、とある。

 

 日本では、やたらとあくびは忌避されるし、おならなどは言語道断wだろう。

 

 以前お坊様が私の前でやたらとげっぷするので「さすがにどうか」と思っていたのだが、そういう意味だったとは。そういうわけで、スリランカ関係では、法要中にあくびしたって誰も気にしない。他のことはわからない。文化的に、日本ほどタブーでないことだけは確かだ。

 

 日本では、生理現象の逆=煩悩の滅尽、みたいなイメージがあるような気がするが、いや、私もそれがすべて間違いだとは言わない。しかし生理現象を否定したということは、それは身体が求めていることなのに無理に押さえこんでしまう、ということになってしまう。

 

 睡眠などはなかなか難しいところで、じゃあ眠たければいつでも寝れば良いのか、となると「う~ん」だが、テーラワーダ文化圏では、お坊様もよくお昼寝なさるのを知っている人も多いと思う。あれは怠けではない。

 

 自分から湧き上がってくる感情、気分などを否定しまくるのも、だから問題になる。「怒りが嫌だ」という気持ちは痛いほどよくわかる。私もそうだからだ。「欲が厄介だ」という人もいるだろう。

 

 しかし、それと「意欲」は違う。欲だと思ってももしかしたらそれは心の底では本当に求めているものかも知れない、怒りだと思っても、それはほんとうに心の底から嫌悪しているものなのかもしれない。しかし、それらはもしかしたトラウマかも知れない。

 

 だから、ヴィパッサナー冥想でも、感情を否定するのではなく、「気づいてください」と言う。思考の否定ではなく、どういう思考が生まれたのか「気づいてください」ということだ。でないと、モグラたたきのように、思考が現れるたびに怒りで潰す、結局それは怒りの冥想じゃん!ということになってしまう。

 

 また、現れてきた思考に意味付けをしてしまっても、道を見誤ることがある。だから「思考するな」なのだ。思考が現れたら「気づいてください」。それだけ。ある日突然その答えが見えることもあるし、見えないこともあるかも知れない。

 

 そういえば、私は冥想を始めて暫くしてから、色んなものが見えるようになってしまったが、もう何年も前、なんか見えるようになった最初の頃に見た、なんだか幾何学模様のようなものと数字、それが昨日「あ!」と思った。

 

 怪しい話(笑)なので信じていただかなくて結構だが、これはアビダンマで言う「業・業相・趣相」みたいなものかな、と思っている。最後にいつもの本(もう面倒だから書名は書かない…)の81頁を引用して終わりにしたい。

 

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

業・業相・趣相 また、ここでは、この6種の所縁を論の用語を用いて、業・業相・趣相とも言うのである。現生の結生・有分・死は、前世における臨終の速行によって捉えられた業・業相・趣相の中のどれかを所縁とするのである。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 私が言いたいのは、そういう所で何か見えたところで、それはその対象そのものではなく、それに関連したものだったり、それに関連した環境だったりすることもある、ということだ。

 

 夢判断とは、ちょっと違うと思う。「象徴」というわけではないから。恐らく。よくは知らない。すまん。

 

 

 まあとにかくこういう話も、人によって見える見えないがあるし、そもそも興味があるかないかもまったく違う。

 

 経典にもあるではないか。最後まで引っかかる場所が、(恐らく業によって)人によってまったく違う。だから、悟りに至るまでの道筋も、人によってまったく違う。方向も違えば、順番も違う。

 

 今日の話を見て、「これはおかしい」と思った方もいるかも知れない。そういう人は、私の方向とはまったく違うのだろう。そっ閉じ願いたい。

 

 ただ、もし誰にも言えずに「こんなことがあったんだけど」という方がもしいるのなら、私にはこういうことがあった、という事実を披歴することによって、「あ、こういうこともあるんだ」とか「こういうことがあってもいいんだ」という気持ちになれるとしたならば、これ以上ない幸せだ。

 

 なぜかというと、私は長年これに悩まされてきたからだ。お坊様はヒントをくれるだけで、がっつり答えてはくれないことが多い。まだ日本ではそういう時期ではなかったのかも知れない。「お前なら自分で答えを見つけられるだろう」という期待だったのかもしれない。知ってはいるのだが、日本の文化背景に合わせて答えることはできなかっただけかもしれない。お坊様の中でも、「見える」人は少ないのかも知れない。そこら辺はまったくわからない。

 

 もうぶっちゃけるが、実は私は冥想を止められていた。私だって、皆さんのように激烈に冥想したかった。しかし、見えざる力wによって、いつも止められた。いつも、だ。いつもいつも。

 

 嫁さんの話によると、どうもお坊様にはタイを勧められたことがあったらしい。相当前、テーラワーダを知って結構間もなくの話だ。しかし嫁さんは外国には出たことがなく、恐らくそのお坊様もそちらは諦めたのかも知れない。

 

 最近は、前ほどは止められなくなった。「前ほどは」。以前は数秒で止められることもあった。

 

 これが何を意味するのか分からない。やっとこんなことをブログで書けるようになった、ということは、日本語環境でもこういうことを書いていい時期には来ている、ということだろう。

 

 

 ああ、やっと長い間ストレスだったことを発散することができたー!

 

 というわけで、神々を味方につけると、もしかしたらめんどくさいことがあるかも知れない、という話(笑)でした。

 

 ま、あまり社会的なことばかり気にかけていても、ね。

 

慈しみの冥想3

 引用は富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

puratthimasmiṃ disābhāge santi devā mahiddhikā,
プラッティマスミン ディサーバーゲー サンティ デーワー マヒッディカー
東方にいる偉大なる神々が健康で幸福で、
tepi maṃ anurakkhantu ārogyena sukhena ca.
テーピ マン アヌラッカントゥ アーロー(ッ)ゲーナ スケーナ チャ
我々を守ってくれますように。

dakkhiṇasmiṃ disābhāge santi deva mahiddhikā,
ダッキナスミン ディサーバーゲー サンティ デーワー マヒッディカー
南方にいる偉大なる神々が健康で幸福で、
tepi maṃ anurakkhantu ārogyena sukhena ca.
テーピ マン アヌラッカントゥ アーロー(ッ)ゲーナ スケーナ チャ
我々を守ってくれますように。

pacchimasmiṃ disābhāge santi devā mahiddhikā,
パッチマスミン ディサーバーゲー サンティ デーワー マヒッディカー
西方にいる偉大なる神々が健康で幸福で、
tepi maṃ anurakkhantu ārogyena sukhena ca.
テーピ マン アヌラッカントゥ アーロー(ッ)ゲーナ スケーナ チャ
我々を守ってくれますように。

uttarasmiṃ disābhāge santi devā mahiddhikā,
ウッタラスミン ディサーバーゲー サンティ デーワー マヒッディカー
北方にいる偉大なる神々が健康で幸福で、
tepi maṃ anurakkhantu ārogyena sukhena ca.
テーピ マン アヌラッカントゥ アーロー(ッ)ゲーナ スケーナ チャ
我々を守ってくれますように。

puratthimasmiṃ dhataraṭṭho dakkhiṇena virūḷhako,
プラッティマスミン ダタラットー ダッキネーナ ウィルールハコー
東方の持国(ダタラッタ)天王、南方の増長(ウィルールハカ)天王、
pacchimena virūpakkho kuvero uttaraṃ disaṃ,
パッチメーナウィルーパッコー クウェーロー ウッタラン ディサン
西方の広目(ウィルーパッカ)天王、北方の毘沙門(クウェーラ)天王という
te'pi maṃ anurakkhantu ārogyena sukhena cāti.
テーピ マン アヌラッカントゥ アーロー(ッ)ゲーナ スケーナ チャーティ
偉大なる神々が健康で幸福で、我々を守ってくれますように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 以前書いたように、私はかな打ちだ。パーリ語の読みを打っていると、右手の小指の所ばかり出てくる。伸ばす「ー」が一番隅っこにあり、しかも頻発する。まあ打ち間違えること打ち間違えること。

 


 さてこれまた以前に書いた通り、四天王といっても、四人しかいないわけではない。よくは知らないのだが、大乗仏教にも出てくるだろう。ここでいう神々とは、諸天善神と考えても良いだろう。色々違いはあるが、同じ仏教には違いない。

 

 記憶が全く定かではないが、確かスリランカでは、満月には四天王が降りてきて、「五戒を守っているかー?」と見回るのではなかったか。新月は将軍だったか。「こいつは五戒を守っていません」とか名簿を四天王に持って行くとか。まったく違うかも知れん。すまん。

 

 四天王は預流果だそうだ。アーターナーティヤ・スッタなどを見ると、預流果になっても悩みは尽きなさそうだ。

 

 毘沙門天は日本でも大変馴染みのある、仏教の守護神だ。アーターナーティヤ・スッタでも、四天王と率いる大軍を代表して、お釈迦様に進言する。


 以前名古屋でウェーサーカ祭が行われた時、ダンミカ長老もいらっしゃったのだが、やたらと「神々が」と回向していた気がする。

 

 テーラワーダでは、実に神々に対して回向等することが多い。テーラワーダでは、神々は、いわゆる我々が食べるような固い食べ物は食べられない。だからといって日本で食べ物や酒をお供えすることについて文句を言うわけではなく、あれは気持ちがあるものだし文化だから私も見ていて大変気持ちの良いものではあるのだが、教義上そういうものをお供えしたところで食べられない、受け入れることができないとなっているのだからではどうするのかというと、回向するのだ。功徳をシェアするんですな。これがテーラワーダ上、神々の大好物だ。そもそも善行為自体が大好きだ。善行為をする人間が、更に回向して善行為を上積み。もう神々が寄ってこない理由がない。

 

 テーラワーダでは護経を唱える前に神々を呼ぶし、慈悲の冥想の11の効用でははっきりと「神々に守られる」とあるし、転法輪経では後半でいちいち無色界以外の神々の名前を読み上げるし、マハーサマヤ・スッタなどは、ほんとうにただ集まってきた神々の名前を読み上げているだけだ(←いずれも護経とされるものの中にあるもの)。

 

 回向の文も、

 

ākāsaṭṭhā ca bhummaṭṭhā
devā nāgā mahiddhikā,

 

 と、伝統的に神々に対してやる。スマナサーラ長老が祝福なさる時に入れているのをよく聴くだろう。

 

 そういうわけで、こういう所で神々に対して、と意識するだけでも、既に天隨念ともなる。


 冥想、特にサマタ冥想などは範囲を限定しがちだし、禅定を目指すとなると当然範囲は限定した方が良いわけだが、解脱に向けて!というわけではなく、もう少しゆるく、「善行為だ」という感じでやる分には、いろんなところでオーバーラップする。そして、それはお坊様としても否定するどころか、推奨するのが普通だ。専門的にサマタ、となるともしかしたら嫌われる部分があるかも知れない。そこはわからない。

 

 だから、「細かく分けるとこれは~冥想」なんて話になってくるのだが、あまり興味が無ければ、そんなことは考える必要はないだろう。そういうのが好きな向きには、本格的にアビダンマを学ぶことをお勧めする。それはまたそれで大変面白い。「おお、ここはこう細かく分けることができるのか!」と喜べる人には、これ以上なく楽しい分野だ。

 

 しかしそうでない向きには、心心所くらいまでを「なるほど、テーラワーダではこういう考え方をするのか」とわかってもらえれば、それで良いと思う。正直、それ以上やっても苦痛でしかないだろう。

 

 なんかネットで見ていても、中途半端なアビダンマの知識でいい加減なことを言っている人を目にする。興味を持ってくれることは嬉しいのだが、「う~ん」とも思う。

 

 アビダンマ(ッタサンガハ)をやればわかると思うが、あれは恐ろしく矛盾が無い。まだまだ知識が浅い頃に「なぜこうなのだろう?」と思っていたものが、勉強が進んでいくといきなり繋がったりして、ほんとうに驚愕する。だから、最初の時点ではきっちりとお坊様の言う通りに覚えておいた方が良いものなのだ。

 

 まあしかし、その時点で方便、というか、お坊様の冥想指導に沿って教えられる方も勿論いるわけで、そうなってくると、修行には大変役に立つのだが、アビダンマとしての勉強になるのか、と言われるとそれもまた「う~ん」だ。

 

 その点、残念ながらスマナサーラ長老のアビダンマの本は、問題があると言わざるを得ない所がある。前にも書いた通り、一通りわかってしまった後に読むと「やっぱりすげぇなあ」とわかるわけだが、その「一通りわか」るまでを導いてくれる本では、残念ながら、無い。

 

 なぜかというと、アビダンマどころか、まずはテーラワーダに対して馴染みがない日本人に向けて「初めて」と言っていい本で、その為にまずはアビダンマという考え方とはこういうものである、テーラワーダとはこういう考え方をするものである、ということを披歴したものなのであって、だからこれを機にアビダンマに興味を持つことは大変良いことなのだが、この本で本格的にアビダンマを勉強しようとしたら、正直後々問題が起こる、「一字一句そのまま覚えるぞ」などと思ってしまったならば。

 

 なので、あの本でアビダンマを勉強したいと思ったら、「概念としては、まあこういうことなのかなあ」と考えて読むと、大変勉強になる。スマナサーラ長老ならではの、非常に面白い視点もある。

 

 確かまえがきにも書いてなかったか、「アビダンマを使った説法」とかなんとか。


 そういうわけで、テーラワーダにおいて一字一句そのまま覚えるのは経典であって、しかもそれはパーリ語の方が良い。訳だとまた問題が起こる場合がある。それと、注釈書や、権威があると認められている副注釈書、等。注釈書以降は三蔵とは違い、「絶対」とは言い切れないが、教義的には超参考になる。伝統的にも、暗記するならそこら辺までと、あとは習慣的に用いられる祝福の偈など。それ以降は個人の自由だが、まずはそちらを暗記して下さい、それからね、ということになる。

 

 そういうことが分かった上で、またスマナサーラ長老のおっしゃることを見ると「すげぇこと言ってるなあ」とわかるわけだが、スマナサーラ長老の言うこと「だけ」をまた好きに解釈してなにかを言い出すと問題になる。長老は、かなりインパクト強くものを言うことが多い。あまり大きな声では言えないが、「真に受けない方が良いですよ」と言いたくなることも多い。

 

 なぜかというと、何度も言うように人はそれぞれで、皆さんの周りにもいないだろうか、なにごともおおげさだ、という人が。確か現代の心理学でも生まれつきそういうタイプの人はいるということになっていたはずだ。ああいうタイプの人は、否が応にも目立つだろう。

 

 あれと一緒で、真実を伝えるには、その人の頭に入れてしまうには、インパクト強く、オーバーに言わなければならないことがある。

 

 また、これがまったく合わない人がいる。私などがそうだ。厳密に言葉の範囲通りに取ろうとする。実は私は長老の物言いに悩まされた一人だ(笑)。長老は恐らくそれすらわかった上でそうしていると思うが。

 

 中には、こういう物言いすら、真に受けた方が良い人もいるかも知れない。完全な修行タイプだろう。

 

 「真に受けない」と言っても、大事なのは、強弱だ。別に、方向性が間違っているとかいうわけでは、決して無い。決してないのだが、どうも「中道」は忘れられてしまっているかなあ、と言わざるを得ない書き込みをネット上で見かけるので、書いてみた。

 

 なにごとも、バランスは重要だ。中道がバランスのことだけを意味するのか、というとそうではないが、中道というと「中途半端な道」なんて取られてしまうこともある。すべてが真ん中とも限らない。

 


 これで、慈しみの冥想終了。

 

慈しみの冥想2

 引用はいつもの通り、富士スガタ精舎(現富士スガタ冥想センター)の日常読誦経典より。

 

引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

imasmiṃ vihāre, imasmiṃ gocara-gāme,
イマスミン ウィハーレー イマスミン ゴーチャラガーメー
この精舎の、この町の、
imasmiṃ nagare, imasmiṃ raṭṭhe, imasmiṃ cakkavāle,
イマスミン ナガレー イマスミン ラッテー イマスミン チャッカワーレー
この都市の、この国の、この世界の
issara janā, sīmaṭṭhaka devatā, sabbe sattā
イッサラ ジャナー スィーマッタカ デーワター サッベー サッター
豊かな生命、守り神、すべての生命は
averā hontu,
アウェーラー ホントゥ
恨みのない生命になりますように
abyāpajjā hontu,
アッビャーパッジャー ホントゥ
怒りのない生命になりますように
anīghā hontu,
アニーガー ホントゥ
悩みのない生命になりますように
sukhī attānaṃ pariharantu, dukkhā pamuñcantu,
スキー アッターナン パリハラントゥ ドゥッカー パムンチャントゥ
安楽に過ごせますように、苦しみが無くなりますように、
yathā laddha-sampattito mā vigacchantu kammassakā.
ヤター ラッダサンパッティトー マー ウィガッチャントゥ カンマッサカー
業によって得た富が無くならないように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 「imasmiṃ raṭṭhe」というところは、もともとは「imasmiṃ laṅkādīpe, imasmiṃ jambudīpe」だ。「スリランカの、インドの」となっている為、スリランカで作られた文言であることがわかる。それをスガタ精舎で唱えていたら、「う~ん、この国の、の方が良いですね」ということで、imasmiṃ raṭṭheとなった。

 

 経典、三蔵にあるものではないので、テーラワーダを理解している人が文を変える分には構わない。まあ構わないのだが、このくらいのそれなりに暗記している人が多い文章を変えるには、それなりの理由が要る。

 

 そうでない、慈悲の冥想の文言であれば、教義から外れていなければ自分が唱えやすいように文章を変えても構わない。

 

 実は私は「幸せでありますように」という言葉は最初からしっくり来ていなかった。そのため、それに代わる言葉を探すのに時間が掛かった経緯がある。慈がどういうものかよくわかっていなかったし。

 

 というわけで、もし他の慈悲の冥想の文言に多少なりとも違和感があったりした時に参考になったら、という思いでこれも書いている。

 


 で、この中で最初に出てくるのは「豊かな生命」だ。

 

 宗教をやっているとどうしても最初に「不幸な生命」に目が行きがちだが、まあ別にそれは悪いことでもないのだが、そればかりやっていると、自分もまきこまれることがある。慈悲喜捨のうちの悲の落とし穴でもある。最初はどうしてもそちらにばかり目が行く。

 

 このブログでは度々出てくる神々の話題だが、それも最初はやはり「正見の神々が」とやっていた方が安全だ。

 

 テーラワーダではどんな生命とも仲良く、とも言うが、自分の腕に合わせ、どこからどこまで仲良くするか、というのはきちんと中道で判断すべきことだ。距離を取った上で、「幸せでありますように」とやるのであって、とにもかくにもどんな生命とも距離を取るなんてとんでもない、という考え方はテーラワーダではしない。十分に腕が上がったら、憐れみをもって導くためにそういう生命と付き合えばそれで良い。


 私は、慈悲喜捨についても、多少バランスを考えた方が良いのではないか、と思っている。できるようになれば別に問題は無いと思うのだが、できるまでの段階では、ちょっと問題が起こることがあるのではないか、と。

 

 以前にも書いたように、慈悲喜捨も人によって得意不得意がある。だからどれもバランスよく育てよう、と思いすぎる必要はないのだが、それでも一応、全部をやっておいた方が良い気はする。

 


 「守り神」。日本でいうと氏神だ。そういうわけで、地元の神社には是非とも行っていただきたいわけである。


 この後には方角に従って色々な生命が、となるわけだが、今のこの文章では同心円的なやり方だ。

 

 やり方は何でも良い。とにかく自分と、他の生命(有情施設)に対して慈悲の冥想をするなら、自分の得意な他のやり方でも良い。ただ、方角であれば、それは「方角の冥想」ではない、ということだけはわかっておく必要がある。

 


引用引用引用引用引用引用引用引用引用

 

puratthimāya disāya, dakkhiṇāya disāya,
プラッティマーヤ ディサーヤ ダッキナーヤ ディサーヤ
東方の、南方の、
pacchimāya disāya, uttarāya disāya,
パッチマーヤ ディサーヤ ウッタラーヤ ディサーヤ
西方の、北方の、
puratthimāya anudisāya, dakkhiṇāya anudisāya,
プラッティマーヤ アヌディサーヤ ダッキナーヤ アヌディサーヤ
北東の、南東の、
pacchimāya anudisāya, uttarāya anudisāya,
パッチマーヤ アヌディサーヤ ウッタラーヤ アヌディサーヤ
南西の、北西の、
heṭṭhimāya disāya, uparimāya disāya,
ヘッティマーヤ ディサーヤ ウパリマーヤ ディサーヤ
下方の、上方の、
sabbe sattā, sabbe pāṇā,
サッベー サッター サッベー パーナー
すべての生き物、すべての生命あるもの、
sabbe bhūtā, sabbe puggalā,
サッベー ブーター サッベー プッガラー
すべての精霊、すべての人々、
sabbe attabhāva-pariyāpaṇṇā,
サッベー アッタバーワパリヤーパンナー
すべての生まれようとしている生命、
sabbā itthiyo, sabbe purisā,
サッバー イッティヨー サッベー プリサー
すべての女性、すべての男性、
sabbe ariyā, sabbe anariyā,
サッベー アリヤー サッベー アナリヤー
すべての聖者、すべての俗世間の人、
sabbe devā, sabbe manussa,
サッベー デーワー サッベー マヌッサー
すべての神々、すべての人間、
sabbe amanussā,
サッベー アマヌッサー
すべての(夜叉などの)人間ではないもの、
sabbe vinipātikā,
サッベー ウィニパーティカー
すべての地獄のものは、
averā hontu,
アウェーラー ホントゥ
恨みのない生命になりますように、
abyāpajjā hontu,
アッビャーパッジャー ホントゥ
怒りのない生命になりますように、
anīghā hontu,
アニーガー ホントゥ
悩みのない生命になりますように、
sukhī attānaṃ pariharantu, dukkhā pamuñcantu,
スキー アッターナン パリハラントゥ ドッカー パムンチャントゥ
安楽に過ごせますように、苦しみが無くなりますように、
yathā laddha-sampattito mā vigacchantu kammassakā.
ヤター ラッダサンパッティトー マー ウィガッチャントゥ カンマッサカー
業によって得た富が無くならないように。

 

引用ここまで引用ここまで引用ここまで

 

 方角については、文化によって吉凶が違ったりする。占いでも方法や、他の要素によって変わってくる。

 

 インド文化でも、方角は大事なものだったのだろう、この後の神々、四天王も方角は重要な要素だ。

 

 日本は南向きの家が重視されるが、そういったことも日本特有のものも多い。考え方としてはいろんな国にあるが、その方角についてはそれぞれ違ったりする。そもそも北半球と南半球ではまた色々違うだろう。

 

 まあ、これも私にはよくわからない。私は方向音痴ではないので、いつか方角の勉強もしようと思ってはいるのだが…。

 


 「sabbe bhūtā」。ここでは「すべての精霊」となっている。まあ別に「すべての悪霊」とか「すべての幽霊」でも構わない。しかし、テーラワーダとしても「慈悲の冥想は別に宗教関係ないでしょ?」とよく言うにも関わらず、こんなところで「悪霊」とか「幽霊」とか出てきたら、ねぇ。

 

 そういうわけで、なぜか「精霊」だと受け入れてもらえる感じがする。

 

 どうでもいい話だが、ムーミントロールだ。日本に来てずいぶんかわいらしくなってしまったが、もともとのトロールのイメージというのはそうではないだろう。

 

 しかし、だからといって、ではトロールが「悪霊」とか「幽霊」とか言うか、というと、そうでない気がする。やっぱり「精霊」だろう。

 

 ピクシーとか、ティンカー・ベルとかも入るのだろうか。あれは「妖精」か。

 

 ま、どうでもいいか。

 

 とにかく、色んな生命、すべての生命に対して、慈悲の冥想を、慈しみの念を送りましょう!