さくらぎ瀞がわかる範囲の(スリランカの)テーラワーダの教え

スダンマ長老の弟子(在家)がつぶやいてみる。(只今休止中です)

桑名の雨安居明け法要に参加してきました

 いや、正確に言うと、参加できていない(笑)。

 

 私が桑名の精舎に行くのは今回が初めてで、住所はわかっているのだが、Googleマップにも出てこない。仕方がないので写真を頼りに町内を探し回りやっとたどり着くと、スダンマ長老がちょうど帰るところで、「もう終わりました」と嫌味を言われた(笑)。

 後で聞くと、雨が降ってきたので早めに法要は終わったのだという。

 というわけで、私が行った時には法要は終わり、ご飯の時間だった。

 

 もしかしたらご存じない方もいるかも知れない。

 法要の時にはまずお釈迦様にお食事をお供えする。そして次にお坊様。在家で八斎戒を受けている人がいる時はお坊様と同時に食事する時もある。単純に戒を受けている数が多い方が立場が上になるので、この時五戒の在家が給仕するのが普通だ。

 正午を過ぎてもあまりスリランカのお坊様は気になさらないが、ミャンマーのお坊様は通常正午を過ぎたらまったくお食事を摂らない。

 ついでに言うとこの非時食、病気の時は例外だが、お坊様でも病気で一度時間外に食べてしまうと戻すのが結構きついらしい。

 

 超伝統的な視点から言うと、八斎戒を受けている人が部屋に入っただけで五戒の在家は立ち上がる。インド文化圏では立ち上がることで尊敬を示す。日本は「起立、礼、着席」にある通り、これとは逆で、尊敬する人が入って来る時にはまず座っている必要がある。まあこれは気持ちの問題なのでどれが正しいとかいう話ではないが、覚えておくと役に立つこともあるかもしれない。

 礼拝も、超正式には五体投地で手を尊敬する人の足に触れ、においをかぐしぐさをする。私もさすがにここまでの人は見たことがないが、これに準ずるしぐさをする。なのでこの時女性がお坊様の足を触ってもまったく問題にならないが、もしかしたらこれはスリランカだけかもしれない。よく知らない。

 この礼拝はなにもお坊様に向けてだけではなく、先生、両親に対しても同じだ。

 

 スリランカ式だと聖糸をまく時に女性の肌に触れてしまうこともあるが、誰もまったく気にしていない。そもそも女の子の赤ちゃんを喜んで抱きかかえるお坊様なんてよく見る光景だ。他の国はこれを嫌ってなのか、または文化的に糸ではないからか、聖糸ではないようだ。ここもまったくわからない。

 概して、スリランカのお坊様は正直戒律に対してゆるい。戒律ガーといってそこが気になる方は、「律」の国、タイだ。どういう所なのかはまったく知らない。

 しかし厳密に戒律を守るお坊様も当然スリランカにはいらっしゃる。「聖句を在家と一緒に唱えてはならない」というのがあるが、もちろん在家とも一緒に唱えないし、厳密に守るお坊様はなんと沙弥とも一緒に唱えないという。「ブッダン・サラナン・ガッチャーミ」と五戒をお坊様の後に在家が唱えるのは、この名残なのだとか。


 さて、話を本題に戻そう(笑)。

 というわけで、私が桑名の精舎に行った時には既に在家の食事の時間だった。

 テーラワーダのお寺に行ったことのある方はご存知だと思うが、まあこの時の食えや食えや攻勢たるや、すさまじいものがある(笑)。絶対に食わないと許してくれない、という勢いで食べ物をすすめられる。

 そもそもお坊様も、開口一番には「食べましたか?」だ。

 これには当然理由がある。

 eka nāma kiṃ?
 sabbe sattā āhāraṭṭhitikā.

 すべての生命はまずは食によって成り立つ。だからお布施で大事なのはまずはお金ではなくて、第一に食べ物なのだ。ここはテーラワーダ各国だけではなく、イスラム各国でもすさまじい攻勢を受けた方がいるだろう。

 で、食べ物が美味しい。まあ当たり前と言えば当たり前だが、寺に来るということはまずはお釈迦様にお供えする気持ちでお食事の用意をする。そしてお坊様、法要の場合は在家にも。ここのどこにもケチな気持ちが入ってこないのだから、気分がいい食事ができる。ここら辺、食に関して神経質な日本人にはまだちょっと難しい部分かも知れない。テーラワーダ各国の人々は、そもそも文化的に慣れている。

 というのも、日本人は食べ物が余ることを気にするが、テーラワーダの国の人は、食べ物が全員に行き渡らないことを気にする。その方が大問題だ、というわけだ。

 このことについては、あるお坊様が日本の食べ物に対するもったいない精神に対して「日本は寒いからじゃないですか」と言っていた。確かにスリランカでは年中作物がとれる。家の庭でもとれる。そもそも食べ物が豊かな国だから食事のお布施もたんまり、その徳によって食べ物には困らない、となるのかも知れない。

 

 そうやって食べ物が余ったりするとスリランカでは恵まれない人にお布施するそうだが、この点日本は難しい、とスダンマ長老も嘆いておられた。


 さて、本題に話を戻そう(二回目)。

 桑名の精舎。名前をNagoya Siri Samadhi Viharaという。

sakuragi-theravada.hatenablog.jp

 こちらに書いた通り、出家してからは長いが、比丘になられてからは数年、しかし寺の名前の通り冥想で有名な、アミタ・バンテーのお寺だ。このお坊様、外見からは想像できないかも知れないが、無茶苦茶怖い。

 まだ日本語はそんなに得意、というわけではないが、韓国の大学を出られているので、韓国語は完璧だ。

 まだまだ土地の広さもなく、冥想しやすい環境、とは言い難いかも知れないが、在家の雰囲気は大変良かった。さすがアミタ師のお寺。やはりその場所の雰囲気というのは食事の時に出る。

 アミタサーラ、という名前は当然、阿弥陀様の「アミダ」から来ている。極楽浄土から来た、と以前おっしゃっていた(念のため申し上げるが当然冗談だ(と思う))。